2021/11/28 大宮散歩 03 一の鳥居ひろば/祠(いやしろ)/楢姫稲荷神社/にしきひろば/金沢藩江戸上屋敷移築裏門/塩地蔵尊

氷川神社参道と旧中山道沿いに北上。




◆一の鳥居ひろば











◆祠(いやしろ)

「いやしろ」というカフェのまえにあった祠。
何が祀られているのかはわからなかった。











◆楢姫稲荷神社












◆にしきひろば











◆金沢藩江戸上屋敷移築裏門

特に説明版アドは見当たらなかった。
WEBで調べても情報が見当たらないのでご存じの方は教えてください。
(o*。_。)oペコッ












◆塩地蔵尊



旅の途中、病に倒れた父を救うため、二人の娘が、地蔵のお告げに従い塩断ちをした、という伝説が今に伝わります。





 毎年8月24日には地蔵尊祭りを行います。 塩地蔵にはお線香と塩を供えてお参りします。 祭壇には、 12幅の地獄極楽の絵が掛けられ、 夜には念仏や町内の子供たちのお難子が奉納され賑わいます。 近所の方だけではなく、遠くから訪れる方もあり夜7時以降は特ににぎわいをみせます。
 いつの頃からか、こんな話が伝えられています。
  ~妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病にたおれ、日一日と重くなっていきます。ある晩、夢枕に地蔵様が現れ二人の娘に塩だちをするように告げて消えました。 娘は早速塩だちをし、近くの地蔵堂に祈ったところ父の病が全快しました。そこで、たくさんのをこの地蔵様に奉納し、幸せに暮らしたとのことです。~
 この地蔵様は、明治の頃までは吉敷町4丁目の鉄道線路敷地内にまつられていましたが、線路敷の拡張のため移転し、大正10年(1921)に当地に移されました。


吉敷地蔵尊


 いつの頃、どなたが建てたか詳らかではないが、おそらく江戸時代ではないかと思われるこの地蔵尊は、 幾つかの変遷を経て現在地に記るようになったものである。
 この地蔵尊は臨地蔵尊と三体子育地蔵尊の二つが覗られ、昔(明治の頃まで) は現在の吉敷町四丁目地内の鉄道線路内に大師さまとお稲荷さまと共に肥られておりましたが、線路拡張のため大師さまは天沼地域へ、お稲荷さまは吉敷二丁目氷川参道添いに移され、地蔵尊は吉敷町一丁目中仙道沿いに移されましたが、 火災に会い大正十年頃現在の場所に移されました。
 臨地蔵尊の由来は、いつの頃か (江戸時代?) 妻に死なれ、 幼い二人の娘をつれて大宮宿に流れてきた浪人ものが、 大宮宿で病に倒れてしまい医者に見てもらっても、薬を服んでも仲々治らず、 病は日一日と重くなって行くばかりであったとき、ある夜夢枕に地蔵様があらわれて、二人の娘に塩だちをするようにお告げをして消え去った。二人の幼い孝行娘は早速塩だちをして近くの地蔵尊に一心にお祈りしたところ、父親の病気は紙を剥ぐように一日一日と快方に向かい、やがて父親は全快し、そのお礼に沢山の塩を奉納し、再び主家に帰参することができ二人の娘も幸福になったといはれている。そのことにより現在も沢山の塩が奉納され毎日多勢の信者が参詣におとづれております。
 この地蔵尊は、年一度八月ニ十四日に地蔵尊祭として町内の世話人により地蔵尊祭が催され、当日は [勧善懲悪。地獄極薬絵帽] 十二幡が掲げられ参詣者の観覧に供しております。
 この絵幅は、この世で嘘をついたり、思悪事を働いたりしたものはあの世で、 闇魔さまに舌を抜かれたり、針の山に追いやられたり、釜ゆでにされたり、血の池に流されたりという恐ろ、しい地獄絵とこの世で普いことをした書は、 極楽浄土に行ってお釈迦様に可愛がられ幸福になるという極楽の絵が鮮やかな色彩で描かれております。
 この絵幅は、もともとは個人所有のものを一時借り受け観覧いたしておりましたが、何分古い貴重なもので汚染破損等を考し、 後々町内共有の地蔵尊の宝物として永く子孫に伝え勧善懲悪の戒めを残さんと、町内有志の喜捨により、町内在住の花俣恒七氏(故人) に模写を依頼し、 昭和和六年に作製したものであり、元絵は現在東光寺に納められております。


※現地ではどれが塩路増、吉敷地蔵尊、子育地蔵尊なのかわからなかった。











続く。