20211203 御茶ノ水散歩 02 太田姫稲荷神社/ミズノ本社/日本大学病院/吉郎坂/明治大学公開空地/明治大学駿河台キャンパス/山の上ホテル/文坂/御茶ノ水駅

まだまだ北へ向かって御茶ノ水駅でゴール。





◆太田姫稲荷神社

2度来たことがある。
2017/08/17 淡路町散歩 08 幸徳稲荷/五十稲荷/太田姫稲荷/甲賀坂 - ovanの社会科見学



太田姫稲荷神社は、戦国の数多い神社の中でも、窮めて豊かな霊験伝承と、古い由緒をもつ神社であります。
神社にまつわる古絵巻と、「駿河台文化史」(総和10年神田史研究会)によると当神社の縁起は九世紀の伝説に始まります。
百人一首の名歌で知られる参議小野篁は、その詩才は白楽天に比せられたほどで、平安時代第一の漢詩人といわれた実在の人物です。
彼は遣唐副使にまで選ばれましたが、上司の横ぐるまに対立して讒言されたことは有名な出来事です。
絵巻物の伝承によると、承和6年はじめ、篁が伯耆国名和港を出航して間もなく、海上ににわかに六、七丈の大波が荒狂い、雷鳴はげしく轟き、今にも海底に引込まれそうになりました。篁は衣冠を正して舟のへさきに座り、普門品(観音経)を熱心に唱えていると白髪の老翁が波の上に現れて
「君は才職世にたぐいなき人であるから流罪になっても間もなく都へ呼返されるであろう。しかし疱瘡(天然痘)を患れべば一命があぶない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつればこの病にかかることはないであろう」と告げおわると八重の汐路をかきわけてかき消すように姿を消して行かれたという。そのお告げのとおり、篁は翌年はやくも都へ呼返されました。
彼は自ら翁の像を刻み、常に護持していましたが、のちに山城国の南にある一口(いもあらい)の里に神社をつくって、祝い祭ったということです。
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)には最愛の姫君がいたが重い疱瘡にかかり、世にも頼りなく見えたところ、ある人が一口稲荷神社の故事を話したので急使をつかわして此の神に祈願した。使いは幾日もなく、かの社から祈祷の一枝と幣をささげて帰ってきたが、この日からさしもに重かった病もぬぐうようにいえた。資長朝臣は崇敬の念深く城内本丸に一社建立した。
その後道灌資長はこの社を崇拝し、またこの姫君は此の社を深く信心してつかえるようになったが、ある時この神が白狐を現して、われこの城の鬼門を守るべし、と託宣されたので、ついに鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。
今から約543年前第百三代後花園天皇の長禄元年(1457)のことである。
慶長8年(1603)徳川家康公が江戸城に入られた後、慶長11年(1606)江戸城大改築を行ない、城内にあったこの社を西丸の鬼門にあたる神田駿河台裏側の大坂に移された。ためにこの坂は一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後、代々の将軍これを崇拝し、その修理造営は徳川家が行ない、僧職が別当となりて神明奉仕した。この社は駿河台の鎮守として数々の霊験厚く神威いちじるしきこと筆にも絵にも書きつくすことはできない。と古絵巻は伝えています。
慶應2年(1866)本郷春木町より出火、これが大火となって、御神体を除神殿、末社、宝物什器及び別当居宅などを全焼し、
明治5年(1872)神社制度制定により神職司掌として神社奉仕をなす。例祭日は毎年4月18日と定められ、後に5月15日とあらたむ。
大正12年(1923)関東大震災で類焼。御神体のみ無事に湯島天神社に避難する。
大正14年(1925)仮社殿が落成し御神体を奉安す。
昭和3年(1928)氏子各位の寄進により、本社殿、神楽殿、御水舎、神輿庫、社務所、鳥居等新築さる。
昭和6年(1931)お茶の水駅、両国間の総武線建設のため社地の大半を収用され、鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定、一切の建築物をそのまま移転して今日に至る。



太田姫稲荷神社は、極めて豊かな霊験伝承と、古い由緒をもつ神社であります。
駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります。
詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和六年はじめ伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の危険を感じたため、篁は正装をして船の舳に座り熱心に普門品(ふもんぼん=観音経)を唱えていると、白髪の老翁が波上に現れて「荒波から命を守つやるが疱瘡(天然痘=大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつれば、この病にかかる事はないであろう」と告げ波間に姿を消した。そのお告げを護り自ら翁の像を刻み、護持していた。後に山城国京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った。
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が思い疱瘡にかかり絶望の中、人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願。使者は祈祷の一枝と幣を授かり帰ると、十直の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し姫君と共に深く敬拝した。ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり、鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。長禄元年(1457年)のことである。
慶長八年(1603)八月、徳川家康公が江戸城へ入られた後、慶長十一年の江戸城大改築の際、城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後代々将軍が崇拝し、修理造営は徳川家が行ったと伝えられている。
明治五年(1872)神社制度により神職司掌とする。
例祭日は毎年四月十八日と定められ、後に五月第二土曜日となる。
大正十二年(1923)関東大震災で類焼、御神体のみ無事に湯島天神に避難する。
大正十四年(1925)仮社殿が落成。
昭和三年(1928)氏子各位の寄進により、本社殿、神楽殿、御水舎、神輿庫、社務所、鳥居等新築される。
昭和六年(1931)御茶ノ水駅、両国駅間の総武線建設のため社地大半を収用され鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定。一切の建築物をそのまま移転して今日に至る。













◆ミズノ本社

『ミズノ株式会社(登記上の商号: 美津濃株式会社、英: Mizuno Corporation)は、大阪府大阪市住之江区南港北に本社を置く、日本の大手総合スポーツ用品メーカー。
同社の経営理念は「より良いスポーツ品とスポーツの振興を通じて社会に貢献する。」。コーポレート・メッセージは「THE WORLD OF SPORTS」「明日は、きっと、できる。」「REACH BEYOND」。 』
ミズノ - Wikipedia

コチラの建物は東京本社ということだね。














日本大学病院

日本大学病院(にほんだいがくびょういん)は、東京都千代田区にある医療機関であり、学校法人日本大学が運営する病院である。略称は日大病院。』
日本大学病院 - Wikipedia













◆吉郎坂

坂下。



坂上














明治大学公開空地


鵜澤總明先生像

『鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8月2日)- 1955年(昭和30年)10月21日)は日本の弁護士、政治家。学位は法学博士。新字体で鵜沢 総明(うざわ ふさあき)とも表記される。旧名・惣一。
第一東京弁護士会会長、衆議院議員貴族院議員、大東文化学院総長、明治大学総長、国際基督教大学評議員会議長[1]などを歴任した。
青山学院大学学長を務めた経営学者の鵜澤昌和は次男。 』
鵜澤總明 - Wikipedia














明治大学駿河台キャンパス













山の上ホテル

山の上ホテル(やまのうえホテル、Hilltop Hotel)は、東
山の上ホテル - Wikipedia
京都千代田区神田駿河台にあるホテルである。日本におけるクラシックホテルのひとつであり、特に1937年(昭和12年)に完成した本館の建物はアール・デコ調のクラシカルな内外装を残している。』
山の上ホテル - Wikipedia













◆文坂

石碑から坂下方向。














御茶ノ水

ゴールのJR御茶ノ水駅。














調べれば調べるほど史跡などが見つかるため、まだまだ千代田区の散歩は続く・・・。