2021/12/16 新橋散歩 02 新橋駅前ビル/㈱電通グループ東京本社/中銀カプセルタワービル/検査業務開始の地/浜離宮前踏切跡/銀座東八丁目歩道橋/三十間堀跡

新橋駅から山手線東側の史跡等を巡る。





新橋駅後のルート。




◆新橋駅前ビル

『JR新橋駅東側の駅前広場と国道15号(第一京浜)の間に位置し、都道とその上部のゆりかもめ新橋駅を挟んで北側の1号館と南側の2号館からなる。本ビル建設以前は「狸小路」と呼ばれる飲み屋街で、1964年東京オリンピック後に市街地改造事業が行われ1966年に竣工した。プロフィリットガラスと呼ばれる、縦に溝の入ったガラスの格子状の外観が特徴的である。この事業に合わせ、駅前広場の地下には京急新橋地下駐車場(2009年に株式会社京急ショッピングセンターに吸収合併)による「京急しんちか駐車場」が開設された。1号館塔屋には、竣工時に京浜急行のネオンサインが掲出された。
地下から地上2階にかけては店舗が入る。地権者の店舗のほか東京都による分譲も行われた。かつての狸小路の雰囲気が取り入れられ、飲食店が多く入居する。開業当初から営業する「ビーフン東」は池波正太郎がよく訪れた。この飲食店街は、新橋駅を挟んだ向かいにあるニュー新橋ビルとともに「サラリーマンのオアシス」として知られる。3階から9階にかけては事務所で、9階には地権者用の住居も設けられた。かつては日本ヘラルド映画のオフィスと試写室もビル内に所在した[2]。過去には1962年から1977年まで常磐急行交通の長距離バスがビル付近から発着していた。 』
新橋駅前ビル - Wikipedia

コチラのビルも再開発が決まっており間もなく解体される予定だ。



開運狸の由来
 江戸時代の新橋は狐・狸・狼が出没するような所でけもの道が沢山あり人はよりつかなかった。
 明治時代になり鉄道建設の為この近辺の開拓に当たったところ、狸の巣があり子狸が三匹も見つかり、作業員が餌を与え、三つの小屋を作ってあげたと云う。その場所が丁度このビルの所でした。子狸がどこかへ行った後残された狸小屋に人が集まって酒を飲んだりしたのでその辺りに飲食街が出来、これを「狸小路」と称する様になった。
 「狸小路」は新橋駅前正面にあり、虎ノ門の官庁街に行く人や銀座に遊びに行く人の通り路であり、皆様からも愛される東京の道標となった。
 古くから親しまれた「狸小路」はこのビルが建設されて無くなったが、懐かしい思い出を残そうとのことから今回この銅像を建立した。
 「開運狸」と命名し新橋駅を見守りながら全国の方々の開運を祈念しております。


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◆㈱電通グループ東京本社












中銀カプセルタワービル

中銀カプセルタワービル(
なかぎんカプセルタワービル)とは、黒川紀章が設計し、世界で初めて実用化されたカプセル型の集合住宅(マンション)である。1972年(昭和47年)竣工 』
中銀カプセルタワービル - Wikipedia

『2021年3月、解体・建て替えを計画する不動産業者への売却が決議され、住人の退去が進んだ。 』
とのことなので、こちらのビルを見られるのもあと少しかもしれない。













◆検査業務開始の地



 明治9年6月17日, この地に 工部省電信寮の碍子試験所が発足 して電信用碍子の電気試験が行わ れた。これが我が国における近代 的物品購入検査の始まりである。
  検査100年を記念して












浜離宮前踏切跡




 この信号機は、昭和6年(1931年)から昭和62年(1987年)1月31日までの56年間、国鉄汐留駅東京都中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されました。
 最盛時には、1日150輌に達する貨物車が通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅廃止と共に引込線も撤去されることになりました。しかしながら、地元民の要望により、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として、保存されることになりました。



 元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架かっていました。
 汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914年)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運送のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。
 都民の暮らしの台所を支えてきたこの信号機を、国鉄廃止に当たり捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。












◆銀座東八丁目歩道橋

下は昭和通りと海岸通りの交差点。














◆三十間堀跡

以前来たことがある。
三十間 の検索結果 - ovanの社会科見学





 江戸時代から昭和二十七年(1952)まで、現在の中央通りと昭和通りの間には南北に長い人堀がありました。慶長十七年(1612)に完成したこの掘割は、江戸城下の埋め立て造成の過程で舟入堀として整備されました。なお、三十間堀の名は堀幅が三十間(約55m)あったことに由来します。
 また、当初の三十間堀川は、京橋用から鉤(かぎ)の手状に曲がった後に南流していましたが、明治三十九年(1906)の水路工事によって京橋用から汐留川まで真っすぐ南流する堀川となりました。なお、文政十一年(1828)には、河岸地の面積を広げるために護岸が埋め立てられており、堀幅が十九間(約35m)にまで狭められました。
 戦後、この掘割は、がれき処理のために昭和二十三年(1948)から埋め立て工事が行われ、同二十七年にその姿を消しました。

 向って左側に積み上げに三個の築石は、三十間のもので、八丁日十二番地九子族岸より発掘されたものです。
 右側の石は、約一トン半あり八丁目十番地の四号、旧料亭蜂龍跡地から発堀されだもので、此所は江戸名所図絵にも描かれ、今日の信楽通りの源である「信楽茶屋」跡と云い伝えられております。












続く。