2021/12/23 神田散歩 03 ワテラスタワー/篠山藩青山家上屋敷跡/神田やぶそば/江戸城 筋違見附跡/昌平橋/神田旅籠町

都営新宿線小川町駅とJR御茶ノ水駅の間をいろいろ散策する。





ワテラスタワー



『WATERRAS(ワテラス)は、東京都千代田区神田淡路町二丁目に位置する「淡路町二丁目西部地区第一種市街地再開発事業」で整備された複合施設。2013年4月12日に開業した。運営者は安田不動産。同時期に開発された複合施設のソラシティとは隣接している。』
ワテラス - Wikipedia











◆篠山藩青山家上屋敷



現地では説明版など見当たらなかった。
googele mapの位置は上の写真のところあたり。



古地図に「丹波篠山藩(京都)青山下野守」とある。

『篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県丹波篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。』
篠山藩 - Wikipedia











◆神田やぶそば

かんだやぶそばは、東京都千代田区神田淡路町2丁目にある1880年明治13年)創業の蕎麦屋店舗。 』
かんだやぶそば - Wikipedia











江戸城 筋違見附跡



 御成道 とは、徳川将軍 が参詣 などで通る道筋のことを言います。江戸時代、この場所には江戸城外郭門 のひとつ筋違門 があり、上野寛永寺 の将軍家墓所への参詣 と、日光東照宮への社会の際に、将軍は江戸城大手門 から出て神田橋門 を通り、この門を抜けて上野に向かいました。
 筋違門の名は、日本橋 から出発して、本郷 ・板橋 に向かう中山道 と御成道が筋違 に交差していたためです。門内には火除けの広小路 があり八つのロに通じていたため、俗に「八つ小路 」と呼ばれていました。












昌平橋

道路は外苑通り。
下は神田川
上は総武線





 昌平橋は、江戸城外堀 (現在の神田川) に架かる橋の一つで、1624~44年 (寛永年間) に架けられたと伝えられています。 橋際から駿河台に登ると一口荷(現在の太田姫稲荷神社) があり、一ロ橋とも呼ばれました。他にも、相生橋という呼称もありました。その後、1691年(元禄4年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。
 少し下流にあった筋違門とともに、中山道·日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八っぷ路」と呼ばれる広場として賑わいました。


お茶の水分水路

コチラに詳しく載っていた。
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000047322.pdf











◆神田旅籠町



 この周辺は、かつて神田旅籠町(かんだはたごちょう)と呼ばれていました。
 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿(いたばししゅく)、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
 しかし、天和(てんな)二年(1682年)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694年)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原(やないはら)周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869年)には、昌平橋と筋違橋(すじかいばし)の北側にあった幕府講武所付町屋敷(ばくふこうぶしょづきまちやしき)が神田旅籠町三丁目と改称されました。
 さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。「諸問屋名前帳(しょどんやなまえちょう)」によれば、嘉永(1848年~1854年)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。












続く。