2022/01/01 墨田区横川散歩 06 小梅銭座跡/業平橋/本所吾妻橋駅/妙縁寺/長谷川馬光の墓/王貞治記念碑

途中まで大横川に沿って北上した後、浅草通りを西へ進む。
本所吾妻橋駅からは南下。



◆小梅銭座跡



 銭は、中央に四角い小さな孔(あな)をあけた円形の 金属貨幣で、国内では七世紀後半の富本銭(ふほんせん)の鋳造に始まると考えられています。八世紀初頭から 十世紀半ばにかけては和同開珎(わどうかいちん)をはじめとするいわゆる皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせんちゅうぞう)が鋳造されました。公鋳銭の発行は、平安時代の末から長らく途絶しましたが、寛永十三年(一六三六)六月、江戶幕府は芝網縄手と浅草橋場、近江坂本に銭座を設け、寛永通宝(かんえいつうほう)を発行するようになりました。そして以後、幕末に いたるまで各種の銅銭が流通したのです。
 江戶時代後期の有名な地誌、『新編武蔵風土記稿』(しんべんむさしふどきこう)によれば、当地にあった銭座はとくに「新銭座」の名で呼ばれ、その敷地は百二十間四方(約四万七千m)に及んだそうです。稼働期間は不明ですが、『古今泉貨鑑』(ここんせんかかがみ)によれば、元文元年(一七三六)十月二十日に裏面に「小」の一字を入れ た寛永通宝が鋳造されたよう です (右図)。運営は、幕府の御用商人が 請け負いました。幕府の財政経済資料をまとめた『吹塵録』(勝海舟編) には、野州屋・南部屋という二つの屋号が確認できます。
 なお、墨田区内では、当地のほか押上や本所馬場、本所横川にも銭座があったとされ、とくに本所馬場では天保通宝(天保銭)を鋳造していたと伝わっています。










業平橋

下は大横川。




オリンピック記念国旗掲揚


皇太子殿下御降誕記念国旗掲揚









本所吾妻橋駅

都営浅草線本所吾妻橋駅









◆妙縁寺


「夜官井銘」の碑



『御府内寺社備考』や『葛西志』にも記されていたのが、ここ妙縁寺にあった夜窪井の井戸です。いつ掘られたのかはわかりませんが、人々から愛され、そのそばにこの石碑が建てられました。
 宝暦二年(1752)、儒学者井上蘭台が中国の「詩経」の一節を引用しながら詩を作り、朗川膝包貫が同十二年(1762)に建碑しました。銘文は左のとおりです(下段は大意)。

風雨如晦愛喪幼孫映々不寝 念彼九原嗟兹效胎禽聲聞于野 薄言求之寒泉之下追其今号 清列且深自治伊成實勞我心 賓暦二季六月蘭憂井通標撰

風雨で闇のような暗さの中、鶴は我が子を失い、気になって眠れずにあの世の子を思い浮かべている。この泉で鶴は霊くような声を聞いた。我が子の声かとわずかな期待をして冷たい泉のもとにいた。その泉は今に及び、清列かつ深い寒泉のもとに私はたたずんでいる。鶴同様に私は愛いの気持ちをここに送り、確かに自分の心をいたわった

 井戸は安政地震でふさがりましたが、第五十一世日英上人の時、安政六年(1859)に再度堀り抜きを行い、関東大震災まで使用されました。
 飲料水に乏しく、水に苦労してきた本所地域において、名水の痕跡を残す貴重な歴史資料といえるでしょう。



 正栄山妙緣寺は、京都要法寺の開基日尊が創建Lたと伝えられて います。寬永六年(1629)に総本山大石寺の第十九世日舜上人が浅草に中興し、遅くとも寛文十一年(1671)頃までには本所中之郷村 (現在地)に移転したことが分かって います。
 江戶時代の境內図を見ると、現在と同じく山門は三ッ目通りに面し、その山門を入った左手、すなわち南側に「夜霍井銘」の碑はあったようです。儒学者井上蘭台(1795~1761)が宝暦二年(1752)に作った詩を同十二年に朗川膝包貫が書して建碑したことが知られています。
 この夜雀井は『葛西志』にも紹介された有名な井户です。本所地域は湿地帯を開発Lた経緯から、良質な水の確保が困難で、名水と呼ばれる井戶が非常に大切にされました。夜窪井が掘られた年代や名称のいわれは不明ですが、井戶と名水が人々に愛されたことから、それらを記念する碑が井戸 のそばに建てられたものと考えられます。
 井戶は後年一度ふさがったものの、安政六年(1859)中秋に第五十一世日英上人によって再興されたょうです。その事実も碑の左側面に刻まれています。









◆長谷川馬光の墓



 長谷川馬光は、江戸時代中期の俳人です。貞享四年(1678)に生まれ、始めは藤原直行と称しました。父は、本所に屋敷があった津軽弘前藩藩医でした。幼名を孫太郎といい、のちに親戚筋に当たる御家人・長谷川直隆の養子になりましたが、元禄7年(1694)、8差にして直隆の跡を継ぎ、享保十一年(1726)には西丸小十人(御当番)に列しました。
 馬光は、俳諧蕉門十哲の一人、其日庵・山口素堂に学び、のちに其日庵二世を襲名しました。享保十年(1725)に中川宗瑞、松本珪林、大場蓼和、佐久間柳居とともに「五色墨」の運動を起こし、6年後には冊子刊行され、俳壇が蕉風復古に大きく傾斜していく契機を作ったと評価されています。
 寛保三年(1743)頃には、寺内に芭蕉堂を作り、松尾芭蕉・山口素堂の像を安置しました。残念ながら、芭蕉堂は現存しません。著書には「湯山紀行」、「藪鶯」、「かさね笠」などがあります。馬光の門下として、「説叢大全」を著した溝口素丸等が出ています。宝暦元年(1751)、「振かへる谷の戸もなし郭公」の一句を最期に65歳で没しました。
 桃青寺は、松尾芭蕉わらじ脱ぎの伝説が残されています。また、山号芭蕉山、寺号が芭蕉の俳号のひとつである桃青を称する点からも、松尾芭蕉ゆかりの寺であったことを偲ばせます。









王貞治記念碑(本所中学校)

王貞治氏は墨田区に生まれ、中学時代は卓球部や陸上部で活躍し、特に陸上部では砲丸投げの選手として都大会にも出場するほどでした。さらに2年生の時、それまで休部だった野球部を再開させ、3年生の時には区大会で優勝、都大会へも出場しました。高校時代には全国優勝を遂げ、またプロ野球でも活躍した王選手は、戦災で多大な被害を受けた墨田区にとって、希望の星であったといえます。現在、本所中学校には、自筆「気力」の記念碑がたてられています。』
すみだスポット - 王貞治記念碑 | 一般社団法人 墨田区観光協会【本物が生きる街 すみだ観光サイト】



明徳小学校跡










続く。