2022/01/01 墨田区横川散歩 07 松本家旧住宅/高砂部屋/御谷湯/墨田電話局の慰霊碑/松倉米吉の住居跡/九重部屋

細い路地をまだまだ南下する。





◆松本家旧住宅

以前も来たことがある。
今回も説明版など見当たらなかった。
2018/12/20 本所散歩 07 駆逐艦初霜錨/栗本鋤雲住居跡/摂社若宮牛島神社/若宮公園/松本家旧邸宅/源光寺/アライ湯 - ovanの社会科見学










高砂部屋

高砂部屋(たかさごべや)は、日本相撲協会所属で高砂一門の相撲部屋。番付で用いるいわゆる相撲字では「はしご高」(髙)を用いるが、部屋の看板を含めその他の活字媒体では「はしご高」を用いていない。 』
高砂部屋 - Wikipedia










◆御谷湯

銭湯♪











◆墨田電話局の慰霊碑



 この慰霊碑は昭和二十年三月十日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳を最年少とする電話交換手二十八名及び男子職員三名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男子職員二名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和三十三年三月十日に建立されました。 慰霊碑手前には吉川英治氏の自筆による碑文があります。










◆松倉米吉の住居跡



 ここはアララギ派の代表的歌人、松倉米吉が亡くなるまで、3年間くらした理髪店があった場所(本所区長岡町43番地)でした。
 米吉は明治28年(1895)、新潟県糸魚川で生まれました。12歳の時に母の再婚先(日毛家)に入るために上京しました。日毛家は現在の二葉小学校の周辺にあったようです。
 米吉は近くのメッキ工場で働き始めますが、16歳の時に作った回覧誌「青年文壇」で短歌に出会います。大正2年(1913)、工場近くに住む歌人の小泉千樫を訪ねて正式に会員として活躍を始めます。
 米吉は結核等の病いや貧しさと戦いながら、異色ではありましたが鋭く研ぎ澄まされた労働歌を次々と紡ぎだしていきました。
 大正6年(1917)に母の死により松倉姓に復し、ここで暮らし始めましたが、大正8年(1919)24歳を目前にして没しました。










九重部屋

九重部屋(ここのえべや)は、日本相撲協会所属で高砂一門の相撲部屋。 』
九重部屋 - Wikipedia












続く。