2022/01/07 番町散歩 01 竹橋/東京学生会館跡地/乾門/北白川宮能久親王銅像/旧東京国立近代美術館工芸館/千鳥ヶ淵/北の丸公園

24時間勤務アケで。職場から四ツ谷まで散歩。
雪で足元ツルツルだった!!






最初に北の丸公園を散策。




◆竹橋

スタートの職場。












◆東京学生会館跡地(元近衛兵舎)

以前来たことがある。
2017/05/30 竹橋・市ヶ谷散歩 01 東京学生会館/北白河の宮能久親王銅像/東京国立近代美術館 工藝館/千鳥ヶ淵砲台跡/イギリス大使館/MXTVとTOKYOFM - ovanの社会科見学



1046年5月から1966年11月20日までの20年間、現在の北の丸公園「中の池」の北西に、東京学生会館という学寮があった。旧代官町で、田安門、武道館前を過ぎ、千鳥ヶ淵の手前である。定員620名、都内各大学の男子学生が居住、文部省の外郭団体・財団法人学徒援護会(学生アルバイト斡旋事業も遂行)が管轄していた。
戦後、戦地から帰還した学生たちが、旧近衛連帯兵舎に住み着いて「ここを学寮に」と政府に働きかけ、東京学生館館として認められた。以来、学生の完全自治寮として運営、3000名を超える学生たちが巣立っている。











◆乾門











北白川宮能久親王銅像



 弘化四年(1847)伏見宮邦家親王の第九皇子として御誕生。嘉永元年(1848)青蓮院(しょうれんいん)宮御相続、安政五年(1858)輪王寺(りんのうじ)宮御相続、公現(こうげん)法親王(俗名能久(よしひさ))と称せられ、上野寛永寺の門跡(もんぜき)となられる。明治三年(1870)還俗(げんぞく)して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治十年御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の同五年北白川宮を御相続遊ばされた。同十七年陸軍少将に任ぜられ、歩兵第1旅団長、参謀本部御出仕。同二十五年陸軍中将に任ぜられ、第6・第4師団長を御歴任、同二十八年一月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘えんねつしょうれいの地で疫病に罹らせ給い、明治28年10月28日(1895)台南に於て薨去遊ばされた。
御歳49歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。
 銅像は、明治三十六年一月二十六日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第1・第2聯隊正門前(現在地より東方約60メートル)に建立されたが、昭和三十八年北の丸公園整備計画に従いこの地点に移された。制作は、渡台時近衛騎兵として側近に仕えた斯界の大家新海竹太郎によるもので、芸術的にも高く評価されている。
鋳造は陸軍砲兵工廠である。
 建立後80余年を経て若子個所の損傷を見るに至ったので、昭和六十年有志相諮り修復した。










◆旧東京国立近代美術館工芸館

移転前に来たことがある。
2017/05/30 竹橋・市ヶ谷散歩 01 東京学生会館/北白河の宮能久親王銅像/東京国立近代美術館 工藝館/千鳥ヶ淵砲台跡/イギリス大使館/MXTVとTOKYOFM - ovanの社会科見学



石川県金沢市へ移転とあった。


杉本繁「風の韻」


速水史朗「からみあった柱」










千鳥ヶ淵

桜の名所♪
近年は毎年のように花見に来ている。







北の丸公園

公園内枠のなかを散策。
都心とは思えないね!

















続く。