2021/12/09 日比谷散歩 02 祝田橋/日比谷公園/霞ケ関駅/中日新聞 東京本社/帝国劇場/日生劇場/東京宝塚劇場

日比谷公園とその周辺を散歩。




◆祝田橋

下はお堀。














日比谷公園

何度か来ているが、史跡を巡った時の日記を・・・。
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京橋の欄干柱



 この石橋らは、明治8年(1875年)築造された京橋の欄干柱で、大正11年(1922年)掛替の際にここに移されたものです。
 当時は、橋名を刻んだ親柱もありましたが、昭和9年(1934ネ円)京橋の橋台地が整備されたときそちらへ移されました。


雲形池





首掛けイチョウ



 この大イチョウは、日比谷公園開設までは、日比谷見附(現在の日比谷交差点脇)にあったものです。
 明治32年(1899)頃、道路拡張の為、この大イチョウが伐採されようとしているのを見て驚いた、日比谷公園生みの親、本多静六ほんだせいろく博士が東京市参事会の星享ほしとおる議長に面会を求め、博士の進言により移植されました。
 移植不可能とされていたものを、博士が「首にかけても移植させる」と言って実行された木なので、この呼び名があります。


石橋



 この石橋は、司馬醸造時で霊廟の旧御成門前桜側にかけてあった石橋の一つで、市区改正(現在の都市計画事業)の道路構築の時、ここに移したと伝えられています。
 素朴なうちにも力強く、江戸時代の濠の深さを漂わせています。


馬の水飲み



公園開設当時(明治36年)の照明塔と、同じデザインでつくられた鋳鉄製の水飲みです。
陸上交通の重要な部分をになっていた馬が、水を飲んだといわれています。


イチョウ並木




 イチョウは約一億五千万年前のジュラ紀から生き残る 『生きた化石』 と呼ばれる植物で、他の植物とは違う点が多く分類学上は一科一属一種とされています。
 明治29年(1896 年)、平瀬作五郎氏によってイチョウの精虫(精子) が発見されました。これは植物学史上たいへん重要な発見で、 イチョウが特異な植物である証明ともなりました。
 このイチョウ並木は、 当公園の開園時 (明治36年/1903年) に植えられたもので、都内で最も古いイチョウ並木のひとつです。 


石貨



 この円形の石は、南太平洋ヤップ島(現ミクロネシア連邦)でお金として使われていた石の貨幣で、石貨と呼ばれるものです。石貨は小さいもので直径6cm位から、大きいもので直径3mに達するものまであります。
 一般に、1.直径の大小 2.表面が滑らかか粗いか 3.形のよしあし 4.運搬の難易によって価値が決められました。
 この石貨は直径1.35m短径1.00mのほぼ円形で、大正13年(1924)頃、1000円位で通用したと言われています。


南極の石



 この石は、南極昭和基地から4kmの地点にある東オングル島の慎太郎山(標高40m)で、日本の南極観測隊が採取しました。重さは150kgの片麻岩です。
 南極観測船「ふじ」が持ち帰り、昭和41年4月14日。この公園に設置されました。


恋代スカンジナビア碑銘譯(めいやく)



 スカンジナビアの人々が、1957年2月24日ヨーロッパより北極経由で、日本への空路を開拓しました。この碑は、北極航路開設10周年を記念して寄贈されたもので、スカンジナビアのバイキングの古代北欧文字碑を模したものです。


心字池



 心字池は日比谷公園ができる前は濠でした。
 その面影を残すために公園造成時に池としたもので、全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしています。
 このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。


日比谷門跡



 門の名は、中世のこの地域に日比谷村があったことに由来します。 1614年(慶長19年)に熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤忠広によって石垣が築造され、1628年(寛永5年)に仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗によって門の石垣が構築されました。
 日比谷門は現在の日比谷交差点付近にありましたが、1873年明治6年)に撤去されました、 現在の日比谷公園の心字池沿いの石垣は、日比谷門と山下門の間にあった土手の名残です。


ホセ・リサール博士銅像

フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士1888年この地東京ホテルに滞在す



烏帽子石



 この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、形が烏帽子(えぼし)(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、人々から烏帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。
 明治時代、道路拡張に伴い石塁が取り壊された際、永く保存するためこの日比谷公園に移されました。


キリノ大統領像

 私は、フィリピンで服役している日本人捕虜に対し、フィリピン議会の同意を必要とする大赦ではなく、行政上の特赦を与える。
 私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦すことになるとは思いも寄らなかった。私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。やはり、我々は隣国となる運命なのだ。
 私は、キリスト教国の長として、自らこのような決断をなし得たことを幸せに思う。私を突き動かした善意の心が人類に対する信頼の証として、他者の心の琴線に触れることになれば本望である。人間同士の愛は、人間や国家の間において常に至高の定めであり、世界平和の礎となるものである。


石升












霞ケ関駅












中日新聞 東京本社

中日新聞東京本社(ちゅうにちしんぶんとうきょうほんしゃ)は、日本の新聞社・中日新聞社(本店:愛知県名古屋市中区)の東京都における地域本社である。正式名称は、株式会社中日新聞社東京本社(ちゅうにちしんぶんしゃとうきょうほんしゃ)だが、登記上は中日新聞社東京支店(ちゅうにちしんぶんしゃとうきょうしてん)で、名古屋本社の支社的扱いとなっている。所在地は東京都千代田区内幸町二丁目。
東京新聞』と『東京中日スポーツ』の発行元である。対象地域は東京都を中心とした関東地方の7都県(東京都・茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・神奈川県)及び静岡県の東部・伊豆地方と中部地方静岡市など)の一部。 』
中日新聞東京本社 - Wikipedia













◆帝国劇場

『帝国劇場(ていこくげきじょう、英語:Imperial Theatre)は、東京都千代田区丸の内三丁目にあるプロセニアム形式の劇場である。1911年3月1日開場(杮落し公演は3月4日初日)。収容人数は1,897人。東宝が運営を実施している。帝劇(ていげき)の通称で知られる。 』
帝国劇場 - Wikipedia












日生劇場

日生劇場(にっせいげきじょう、英語:Nissay Theatre)は、東京都千代田区有楽町の日本生命日比谷ビルの中にある劇場である。1963年の完成時の座席数は1,358、現在の座席数は1,334となっている。設計は村野藤吾で、重厚な外観と幻想的な内装を持つ建物として知られる。』
日生劇場 - Wikipedia











東京宝塚劇場

東京宝塚劇場(とうきょうたからづかげきじょう、英語: Tokyo Takarazuka Theater)は、1934年1月1日から1997年12月29日まで東京都千代田区有楽町1-12にあった宝塚歌劇団の東京での本拠地の劇場、および東宝保有していた映画館。別名:宝塚会館。跡地には2代目劇場を保有する東京宝塚ビルが建っている。』
東京宝塚劇場 - Wikipedia












続く。