2022/01/16 銀座散歩 05 並木通り/朝日ホール/数寄屋橋公園/江戸城数寄屋橋門跡/有楽町で逢いましょう歌碑/東京高速道路

まだ、有楽町駅南側エリアを散策。





◆並木通り

商店街♪










◆朝日ホール



1984年に、旧朝日新聞社東京本社の跡地に有楽町マリオンが完成したと同時にオープン。主に映画の試写会やシンポジウム、朝日名人会などが行われている。客席数はイベントによって異なるが、最大776席収容できる。ホールのほかに会議室やギャラリーもある。
将棋の朝日杯将棋オープン戦では、会議室で準決勝・決勝の公開対局が、ホールで大盤解説会が行われるのが恒例となっていた。しかし2018年2月17日に行われた第11回は、準決勝で羽生善治藤井聡太の対局となったことで大入りが予想されたために会場構成が変更され、ホールで羽生対藤井の準決勝及び決勝を、ギャラリーで準決勝のもう一局の広瀬章人久保利明戦の公開対局をそれぞれ行い、大盤解説会は会議室での実施となった。2019年2月16日に行われた第12回でも藤井の進出決定によりほぼ同様の構成(準決勝は2局ともホールで実施に変更)となった。
徹子の部屋は1991年3月18日から22日までの「15周年記念週間」は同ホールで収録が行われゲストは久米宏ミヤコ蝶々杉良太郎明石家さんま山田五十鈴。 』
有楽町朝日ホール - Wikipedia

朝日新聞社はここにあったんだね。
ビックリ。









数寄屋橋公園

こちらには、碑などたくさんあった。



京橋奨兵義會忠魂碑之跡

どういった経緯でコチラに比があるのか、WEBで調べてもわからなかった。


法務省主唱社会を明るくする運動 発祥の地・銀座


 「社会を明るくする運動」は戦後の社会的混乱の時代、犯罪や非行のない明るいまちをめざし、銀座の商店街が「銀座フェアー」として始めたのがきっかけになりました。
 昭和26年には法務府(現法務省)により、この運動が主唱され、今ではわが国でも屈指の規模を誇る国民的運動として定着してきました。
 この度、中央区の保護司会と厚生保護女性会が創立50周年・30周年を記念して、この運動の意義と理念を新しい世代に伝え、平和で明るい社会の実現を祈念して、「社会を明るくする運動」発祥の地銀座に記念碑を建てました。


銀座の象徴 柳並木

 銀座の柳は明治十年頃銀座に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和四十三年銀座通りの改修と共に姿を消した
 このたび西銀座通り が東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石舗装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした
 西銀座通会 はこの柳 が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園 に碑を建立する


銀恋の碑

 心の底までしびれる様な   吐息が切ない囁きだから   泪がおもわず湧いてきて   泣きたくなるのさ この俺も   
 東京で一つ   銀座で一つ
 若い二人が 始めて逢った   真実(ほんと)の 恋の 物語り









江戸城数寄屋橋門跡

現地には説明版など見当たらなかった。
近くに有楽町町名由来版などはあった。



google mapでの位置は上の写真のところあたり。

『武士と町人の居住地を隔てる境界線にあり、見附(本来の表記は見付)と呼ばれる城門が置かれていた。
明治維新後に城門は撤去され、関東大震災後の帝都復興事業によって、1929年(昭和4年)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられた(山口文象設計)。晴海通り (都道304号)が外堀を渡る位置にあり、北側に日劇朝日新聞社、南側に銀座東芝ビルと泰明小学校を臨む風景は東京の代表的な水辺の景観だった。
1958年(昭和33年)外堀が埋められ東京高速道路が建設されるのに伴い取り壊された。その後、晴海通りを跨ぐ高速道路の橋は「新数寄屋橋」と名付けられた。 』
数寄屋橋 - Wikipedia


有楽町 町名由来版

僕の有楽町 竜門冬二
 ぼくにとって戦前の有楽町は”高級な街だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇(日本劇場)や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している。「山手線の環外(かんがい)は東京でも田舎だ」といわれていた。その環外に住むぼくにとって、有楽町はまさに”遠くに在りて思うもの”だった。
 それが突然「きみたちもおいでよ」という庶民的な街に変質したのは、なんといっても大阪からの「そごうデパート」の進出である・昭和三十二年(1957)五月のことで、エスカレーターやエアーカーテンが珍しかった。そして一躍その変貌ぶりをアピールしたのが、フランク永井 の歌う”有楽町で逢いましょう”だ。本当はデパートの#CMソング だったそうだが、そんな気配はみじんもない。銀座と並んで日本の街にした。地殻の都庁に努めていた僕は”すし屋横丁”の常連であり、今でもその跡を懐かしく訪ねる。現実を超えて、有楽町は僕の脳裏にしっかり根づいている。
                                竜門冬二
有楽町
「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長 の弟、織田有楽斎(おだうらくさい)(長益(ながます))に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋(すきやばし)御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。その「数寄屋橋御門」の名前は、外堀(そとぼり)を渡ると数寄屋町に通じることから生まれました。江戸時代、大岡越前(おおおかえちぜん)による、いわゆる「大岡政談」で有名な南町奉行所(みなみまちぶぎょうしょ)があったのもこのあたりです。


数寄屋橋ふれあい散歩

 数寄屋橋ふれあい散步は日比谷公園から歌舞使座までの晴海通りを歩く約1.5kmのみちのりです。かつては水路に囲まれた銀座八丁、現在は日本を代表するショッピング街をめぐる散歩道です。

文明開化と煉瓦街
 現在の銀座のにぎわいは明治に始まる。その頃銀座は、ガス燈・街路樹の続く煉瓦街だった。数寄屋橋から銀座にかけての一帯は、 文明開化の玄関口新橋ステーションや築地を間近に控え、また新橋がら上野浅草方面へ抜ける鉄道馬車が行き交い、維新後いちはやく過去の町並みが一変したところである。2階建アーケ作式のレンガ街には草創期の新聞社が数多く軒を連ねた。また、近代商店街のさきがけにふさわしく、洋服屋靴屋・時計屋・化粧品店など洋風の店が並び、情報ショッピンクの街として発展。”銀ぶら”ならぬ”レンガへ行く”という流行語を残している。


近くにあった壁画



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有楽町で逢いましょう歌碑

あなたを待てば 雨が降る
濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりの ティー・ルーム
雨も愛しや唄ってる 
甘いブルース
あなたと私の 合言葉
有楽町で逢いましょう










東京高速道路

こちらをくぐったり戻ったり(w
史蹟などがたくさんでウロウロした。
高速の後ろに見えるビルは東急プラザ。









続く。