2021/12/29 北の丸散歩 04 子爵品川弥二郎像/元帥大山巌銅像/田安門前歩道橋/靖国神社/市ヶ谷駅/富士山

靖国神社へ到着。
その後はJR市ヶ谷駅でゴール。




◆子爵品川弥二郎



品川弥次郎(1843-1900)
 品川弥二郎天保14年 (1843年) 、長州藩に生まれた。
 15歳の時、吉田松陰松下村塾に入門。練兵館で剣術を学んだ後、長州藩士として、高杉晋作らと尊皇捜夷運動、戊辰戦争で活躍した。
 明治政府設立後、明治3年(1870年)、ロンドン、ドイツ等の欧州に留まり、次第に政治や経済に注目するようになった。
 帰国後、内務省農商務省宮内省に勤め、明治24年 (1891年)に内務大臣となるなど、政治家として要職を歴任した。 また、学校や信用組合や産業組合などの成立に関わった。

品川弥次郎像
 品川弥二郎像は、明治40年 (1907年)に設置された。品川弥次郎は、現在の九段北に存在した練兵館で剣術を学んでおり、練兵館に近い九段坂公園に像が設置された。監督は高村光雲※、原型作者は本山白雲、鋳造者は平塚駒次郎。
高村光雲:彫刻家。文久3年(1863年)仏師である高村東雲のもとで木彫を学んだ。木彫に写実主義を取り入れ、山崎朝雲平櫛田中など後進の育成にも尽力した。代表作は「老猿」「楠木正成像」 「西郷隆盛像」など。









◆元帥大山巌銅像



大山巌(1842-1916)
 大山巖は天保13年(1842年)の生まれで薩摩藩出身。従兄弟である西郷従道(西郷隆盛の弟)は、盟友関係にあった。
 薩英戦争での近代的な軍備に影響され、江川太郎左衛門のもとで砲術を習得した。
 日清戦争では第2軍司令官、 日露戦争では満州軍総司令官を務めた。 東郷平八郎と対を成して「陸の大山、海の東郷」と称された。
 その後参謀総長、内務大臣を勤め元老となった。

大山巌
 大山巌像は、大正8年(1919年) に現在の国会前庭に設置された。銅像は軍服を着た騎乗姿で、原型作者は新海竹太郎。近代の軍人像の中では、数少ない乗馬像の一つ。
 昭和23年(1948年)、GHQにより一時撤去され、東京都美術館に預けられた後、昭和44年(1969年)に現在地に移転した。

大山巌顕彰碑 (解釈文)
 元帥陸軍大将、従一位大勲位功一級公爵の大山厳は、天保13年(1842年)10月10日に鹿児島県において生まれる。日清日露の両大戦後に従い大正5年(1916年) 12月10日、東京において薨かる。









◆田安門前歩道橋

下は靖国通り











靖国神社


さくら陶板

靖國神社 創建の理念
靖固神社は明治天皇の思し召しにより、世の平安を願い国家のために一命を捧げられた人々の重を慰め、その事績を後世に伝えるために明治2年に創建されました。
「靖図」という社号は、「国を晴(安)んずるずる」(典拠「春秋左氏伝)という意味で、「祖国を平安にする」、「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

さくら陶板について
この桜をモチーフにした「さくら陶板」は令和元年(2019)御創立150年を迎えるにあたり、御祭神の故郷の土を用いて各都道府県の陶工により制作·奉納いただいたものです。
御祭神へまごころを込め、伝統の技によりつくられた陶板一枚一枚は慰霊の心とその継承を表わします。
本殿にご参拝いただく皆様の みちしるべ となるよう「慰霊の庭」に建立されました。
各陶板の台座には、靖図神社と同じく、国の礎となられた御当地出身の神靈を祀る全国各地の護國神社名 御鎮座地を記しています。
皆様には「御祭神の御遺徳」に触れていただき、それぞれの陶板に導かれ各護園神社へもお参りいただきたく存じます。
併せて、「遺族の心」を未来へつなぐべく奉慰顕彰に努められている各都道府県遺族会の名称も記しています。
本殿への みちしるべ として「さくら陶板」にいざなわれ、心ゆくまでご参拝ください。

明治天皇御製
我国の 為をつくせる 人々の
 名もむさし野に とむる玉かき

佐賀県/大分県/長崎県/山口県/福岡県

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熊本県/宮崎県/鹿児島県/沖縄県/愛媛県

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佐賀県/広島県/島根県/鳥取県/岡山県

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三重県/奈良県/和歌山県/大阪府/滋賀県

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京都府/兵庫県/高知県/香川県/徳島県

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岐阜県/愛知県/新潟県/長野県/福井県

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石川県/山梨県/富山県/千葉県/東京都

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神奈川県/静岡県/埼玉県/群馬県/栃木県

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茨城県/福島県/宮城県/秋田県/青森県

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北海道/岩手県/山形県

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出征を見送る家族の像



嗚呼 あなたは防人として旅立つのか 
 齢を重ねた父母
 愛しき妻 そして愛し児たち
 皆があなたの帰還を待ちつつも
嗚呼 息子よ 夫よ 父よ 兄弟よ
 天界のあなたを偲び、
 あなたが遺してくれたものを受け継ぎ、
 今も家族は故郷にあります



出征を見送る家族の像 建立由来
 靖國神社の御祭神は、ひたすら愛する父母、兄弟、妻、子、そして故郷、祖国の安寧を祈りつつ、国のために尊い生命を捧げられました。
 御祭神の愛した家族もまた、我が子、兄弟、夫、父の無事の帰還、そして故郷、祖国の安寧を祈りつつ見送られました。
 この愛慕の情こそが尊き伝統にして、戦後七十五年にあたり、当時を偲び、御祭神家族の想いを後世に伝えるべく、茲に徳島県遺族会の発起・製作・奉納による「出征を見送る家族の像」を建立いたしました。
 政策は鎌田邦弘氏、鋳造は酒井鋳金所阪井泰彦氏によるものです。
 尚、初作の碑は徳島縣護國神社境内に建立されています。


靖国神社大鳥居

大鳥居(第一鳥居)は靖国神社御創立創建五十周年記念として大正十年に建立されたが、昭和十八年戦力増強のため撤去され、そのあとに小さな檜の鳥居が建てられていた。全国約一万七千名の芳志に基づく浄財一億六千万円によってこの大鳥居を再建復原して御祭神二百四十六万余柱の英霊に捧げるものである。


常陸丸殉難記念碑



 明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知(すち)中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出港し勇躍征途に就いた。翌15日午前10時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として3隻の敵艦が現われ猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術もなく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄(ますらお)も、海上では如何とも為し難く今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄界灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。


田中支隊忠魂碑



 第一次世界大戦は、4年余にわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正6年(1917)3月、革命が起り、翌年3月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となった。
 当時オーストラリア・ハンガリー軍のチェコ・スロバキア人兵士の車に投降し、連合国側に協力していた約五万のチェコ・スロバキア軍団は、ウラジオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動していたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本、アメリカ、イギリス、フランス等にの各国はチェコ・スロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣することを決した。
 日本から第十二師団がはけんされることとなり、大正7年(1918)8月、ウラジオストクに上陸し、9月初めにはハバロフスクに進軍した。田中支援が属する歩兵第七十二聯隊は、更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方面の過激派討伐に任じたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置し苦戦を強いられていた。第三大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配属を受けて田中支隊を編成し、大正8年(1919)2月25日、敵の退路を遮断する任務を受け、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が北方に退却しつつあるのを知り、香田驍男歩兵少尉の指揮する小隊(44名)を偵察のため先遣したが、約20倍の敵の攻撃を受け負傷者3名のの外全員戦死した。支援主力(150名)は香田小隊を赴援中、26日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇したが衆寡懸絶して包囲され、敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げた。更に、配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた5名の外107名悉く火砲と運命を共にした。
 この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏等が戦友の悲壮な最期を想起し、その神霊を慰めるため昭和9年(1997)2月26日、九段坂下に建立されたものを平成8年(1996)9月3日現在地に移設したものである。
 本碑台座部分には、大正8年(1919)2月27日、第十二師団長大井成元陸軍大将から同支隊に授与された感状(昭和43年(1968)2月27日再建復刻)が刻まれている。


慰霊之泉 -戦没者に水を捧げる母の像-



戦没者の多くは 故国の母を思い 清い水を求めながら 息を引き取りました この彫刻は 清らかな水を捧げる慈愛に溢れる母を 抽象的に表現したものです また この母の像の外壁は 日本古来の宮や社にある固有の 簡素なたたずまいを表します そして背後には 第二次世界大戦激戦地の戦跡の石を収集して 展示しております
建設 昭和42年4月18日 
改修 平成26年6月10日 
奉納 一般社団法人東京キワニスクラブ
キワニスクラブは 恵まれない人々 特に子供達を支援する民間の奉仕団体です 1915年米国ミシガン州デトロイト市で創設され 東京キワニスクラブは 1964年アジア太平洋地域で 最初のクラブとして誕生しました


戦跡の石



靖国の慰霊塔



国は、昭和38年4月1日「戦没者等の妻に対する特別現金支給法」を制定し、戦没者の妻の特別な立場を認め、慰籍の方途を講じました。この感激を記念して、奉納いたします。


和めの井戸

この井戸は令和の御大典を奉祝し造成致しました 湧き出づる水は境内の地下水を使用しています


兵部大輔大村益次郎銅像



 大村益次郎は文政七年(1824)、周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について間学を学び、寛永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を観計建造。さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者蘭方医兵学者としてその名を高めた。ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応二年、第二次長州征伐の折に、石州口の戦を指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改める事を主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治二年(1869)九月、不満士族に襲われて重症を被り、同年十一月五日大阪にて殉した。四十六歳。
 明治二年六月、戊辰戦争の戦死者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、社地選定のため同月十二日、この地を視察したことも記録に見え、靖國神社創建者としての功績は大きく、明治十五年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。
 大熊氏廣は明治九年、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザの薫陶をうけ、四十五年に首席で卒業する。卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻製作に従事、明治十八年に大村益次郎銅像制作を委嘱されると、この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。大熊氏廣の帰朝後、漸く明治二十六年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。大熊はキヨソネの描いた大村益次郎肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。後に大熊は、有栖川宮熾仁親王小松宮親王などの彫像を制作し、文部省美術展覧会審査委員長を務めた。



他にもまだまだ碑などあるのだが、今回はここまで。
近いのでまたお参りします!









市ヶ谷駅

ゴールの市ヶ谷駅











靖国神社、職場から近いからこれからも何度か来たい。
しかし、ほんと職場の近くは歴史が深いね。









◆富士山

高円寺の総武線ホームから。