2022/01/29 中野本町散歩 03 長延寺/常仙寺/大和湯/稲荷社/立正佼成会大聖堂/普門エリア(普門館跡地)/和田堀橋

前のエリアから今度は南へ進む。
細い路地が多いが、車があまり通らないので散歩しやすい。
善福寺川まで南下した後は川沿いを西へ進む。





◆長延寺



 当寺は、万昌山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。
寺伝によれば、開創は文禄3年(1594)江戸市ヶ谷(現新宿区市谷長延寺町)に境内地を拝領して創建されました。
開山は、本寺長年寺(現群馬県榛名町下室田)10世喚英長応となっていますが、実際には2世笑岩長闇で、長応は勧請開山だといわれています。
 開基は、尾張犬山城主成瀬隼人正正成であったが、その後なる瀬隼人正がいつしか当寺を離檀し、墓地もなくなってしまったので、やむを得ず寛文元年(1661)今川直房(義元から三代目)が葬られてからは、直房をもって中興開基となしたと伝えられています。以来、今川家の菩提寺となりました。
当寺は明治42年に現在地に移築されました。
 境内には江戸時代市ヶ谷でとくに有名だったぼたもち地蔵があります。
 その由来は、当時門前に信心深い夫婦が住んでおり、この地蔵に願いをかけて男児を得たが、産後の肥立ちが悪く、母子ともに明日をも知れない状態になったところ、地蔵が化身した小僧がぼた餅を持って現れ、それを食べた母子がともに元気になった。以来この地蔵は子育て地蔵として信仰を集めたと伝えられています。
なおその他に、国学者鈴木重胤の墓があります。


ぼたもち地蔵


石塔


確認できた著名人のお墓
今川直房の墓
『今川 直房(いまがわ なおふさ)は、江戸時代前期の旗本。今川家13代当主[注釈 2]。今川範以の子。江戸幕府に仕え、高家今川家初代当主となった。初名は範英(のりひで)。』
今川直房 - Wikipedia

鈴木重胤の墓
『鈴木重胤(すずき しげたね、文化9年5月5日(1812年6月13日) - 文久3年8月15日(1863年9月27日))は、江戸時代後期の皇学者である。 』
鈴木重胤 - Wikipedia

二宮桃亭の墓
『(1789-1801)のころの人。江戸にすみ,医術を家業とした。沈金(ちんきん)の技に長じ,孔雀(くじゃく),牡丹(ぼたん)の図にたくみであった。一説に鼠(ねずみ)の歯を刀の代わりにしてほったという。 』
二宮桃亭とは - コトバンク

杉浦梅潭の墓
『杉浦 梅潭(すぎうら ばいたん)は江戸時代後期から明治時代の旗本、官僚、漢詩人。最後の箱館奉行。目付及び箱館奉行時代を書き記した日記『経年紀畧』、浪士組に関する記録帳『浪士一件』を著した。 』
杉浦梅潭 - Wikipedia


木村荘八の墓
『木村 荘八(きむら しょうはち、1893年明治26年)8月21日 - 1958年(昭和33年)11月18日)は、日本の洋画家、随筆家、版画家。』
木村荘八 - Wikipedia


土肥黙翁の墓
『1660-1726 江戸時代前期-中期の儒者
万治(まんじ)3年生まれ。土肥霞洲(かしゅう)の父。越後(えちご)(新潟県)の人。江戸にでて,坂井漸斎にまなぶ。下谷(したや)広徳寺門前で子弟におしえた。享保(きょうほう)11年4月29日死去。67歳。名は政平。通称は左仲。別号に堪斎,自観居士。著作に「狎草(こうそう)」「須留毛余志(するもよし)」など。 』
土肥黙翁とは - コトバンク


山門













◆常仙寺



 石雲山常仙寺は、曹洞宗の寺で、開山は本寺である中野の竜昌寺四世祥岩存吉和尚です。
開創は慶長七年(1602)といわれ、当所は江戸麹町に創建され、明治四十一年に至り寺域が狭くなったたえ、現在の地に移転しました。
 本尊は行基作と伝えられる薬師如来坐像で、この薬師のいわれについて「江戸名所図会」に「此霊像、永禄の頃までは参州鳳来寺山麓に立せ給ひしが、往古当寺開山祥岩存吉禅師、参州新城にありていまだ凡俗たりし頃、この霊像虎に化現し給ひ、狼の難を遁れしむ。依って其後法恩の為に出家し…当寺を闢いて此本尊を安置せしとなり」とあり、小像ながら秀麗な仏像です。こうした由来から、この薬師は俗に「寅薬師」と呼ばれ、災難除けの仏として江戸時代から広く人々に親しまれてきました。
 なお、境内には延宝八年(1690)銘の庚申塔のほか、如意輪観音六地蔵などが祀られ、墓地には国文学者塩井雨江の墓碑があります。


塩井雨江の墓
『塩井 雨江(しおい うこう、1869年2月13日(明治2年1月3日) - 1913年(大正2年)2月1日)は、詩人、国文学者。
兵庫県出身。本名・正男。1895年東京帝国大学文科大学国文科卒。落合直文に師事。1895年『帝国文学』の創刊とともに編集委員となり、擬古文で名を知られた。1902年日本女子大学校教授、1911年奈良女子高等師範学校教授。美文典範で知られる[1]。 』
塩井雨江 - Wikipedia


お堂














◆大和湯

銭湯♪



隣にあった「杉並美術研究所」

調べたら絵画教室のようだね。













◆稲荷社














立正佼成会大聖堂














◆普門エリア(普門館跡地)



 ここには、1970年~2018年まで収容人数5,000人の大ホールを有する普門館がありました。「法華経」の「観世音菩薩普門品」にちなんで、普く人びとを真理の門に導き入れたいとの願いで建設された普門館は、本会会員だけでなく、吹奏楽の聖地として多くの人びとに親しまれました。2021年には、普門館から遷された聖観世音菩薩像と芝生広場を有する空間として整備され、大聖堂の参道としても利用されています。
 芝生広場は普門館の外観を受け継いだ、双環形(二つの円形を一つに結びつけた形)をしています。仏教の根本道理である「すべてのものは変化する」(諸行無常)、「すべてのものは、互いに関連をもっている」(諸法無我)、「これらが調和して真の安穏がある」(湿蝶寂静)という“三法印”を、かたちの上に具現したものです。














◆和田堀橋

下は善福寺川















続く。