2022/02/07 本所吾妻橋散歩 03 墨田リバーサイドホール/如意輪寺/造養園跡/枕橋/源森橋/鳴門部屋/荻野吟子 医院跡・終焉地

墨田公園周辺を散策。
南北にかなり広い公園だ。



◆墨田リバーサイドホール

会議室、ギャラリー、ミニシアターなどの施設があるとのこと。
すみだリバーサイドホール 墨田区公式ウェブサイト








◆如意輪寺



 嘉祥二(849)年に慈覚大師が聖徳太子自作の太子像を安置したことに始まると伝わる天台宗の古刹です。像を納めた太子堂は「牛島太子堂、「中之郷太子堂」と呼ばれ、広く知られていました。寺域は560坪あり、門前町は南と東に二ヵ所開かれていました。
 鬼平犯科帳では、「敵(かたき)」に南の門前にある花屋が何度か登場します。その最初の下りに「大滝の五郎蔵はまっすぐに市中を変き切り、大川(偶
田川)をわたって、本所、中ノ郷元町にある如意輪寺門前の花屋に入った。」とあります。後に捕縛され、審偵となる大滝の五郎蔵の盗人宿ですが、亭主の利兵衛が何者かに殺されてから話が大きく転換します。


六面地蔵塔



 延宝六年(1676)4月13日、信心深かった両親「慈父」某と「悲母妙意禅定尼」の菩提を弔い、合わせて「法界平等利益」を願って、その子が造立、奉納した六面地蔵塔です。
 六地蔵は六道能化の本願を表すといわれ、多くは仏寺の門前に建立されます。この六面の地蔵尊は経典にとらわれず、自在に彫られています。
 今は失われている宝珠、蓮弁状に削ぎおとされた笠、各尊像を半肉彫にした塔身、線刻にした蓮華座、荒たたきにして蓮池に見立てた基礎、の五石から成ったものでしょう。
 震災による損傷がありますが、江戸初期の柔和で造形的にも優れた石仏として、区内随一と言えましょう。









◆造養園跡



 この地は常陸谷田部藩細川氏駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏秋田藩佐竹氏の屋敷として移り変わり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。
 文政5年(1822)水野忠成の別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年(1860)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治23年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。
 その後、明治33年(1900)札幌麦酒東京工場がここに設置され、明治39年(1906)には第二本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦造りの建物が庭園のなかばを占めました。大正9年(1920)の工場拡張やつづく震災によって、その面影は失われました。
 平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。







◆枕橋

下は北十間川




源森川水門が見える。
コチラに詳しい情報が載っていた。
源森川水門



google mapにはちょうど電車が走っている下あたりに「旧隅田公園駅跡」がある。
WEBで調べてもあまり信頼できる情報がなかった。





 寛文二年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。
またその北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
 その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治八年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。
 現在の枕橋は昭和三年に架け替えられたものである。昭和六十三年、本橋は東京都著名橋に指定された。








◆源森橋

下は北十間川




近くにあった地図


石碑

 源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったものである。
 その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。
 その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東にあった本橋を源森橋と公称した。
 現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。








◆鳴門部屋

鳴戸部屋(なるとべや)は二所ノ関一門に所属している日本相撲協会の相撲部屋。(同門の田子ノ浦部屋の前身も同名(2013年まで)だったが、系統的なつながりはない)』
鳴戸部屋 - Wikipedia









◆荻野吟子 医院跡・終焉地



日本女医第一号 萩野吟子開業の地
 荻野吟子は、嘉永四年(1851)三月三日に武蔵国輔郡俵瀬村(むさしのくにはたらぐんたわらせむら)(現在の熊谷市依瀬)の名主荻野綾三郎の五女に生まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年(まつもとまんねん)に師事して
学問を身につけました。医師を志したの は一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖(おくはらせいこ)に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治十二年(1879)、私立医学校「好壽院(こうじゅいん)」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度にわたって試験願書を却下されながらも決して諦めず、同十八年三月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子三十五歳。早くもその年の五月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。
 しかし、開業後間もなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたもの ではなったようです。北海道での理相想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二十七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が開静な地を求めてこの地に開業したの は志方と死別して間もない明治四十一年十二月、五十八歳の時でした。
 晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正ニ年(1913)六月二十三日、六十二歳で亡くなりました。

※松本万年
『1815-1880 幕末-明治時代の教育者。
文化12年8月生まれ。寺門静軒(てらかど-せいけん)に漢学をまなび,郷里の武蔵(むさし)秩父郡(埼玉県)で医業のかたわら子弟を教育。明治8年東京師範教員となり,家塾止敬学舎を設立,長女荻江(おぎえ)を教授として女子教育につくした。明治13年9月18日死去。66歳。名は政秀。字(あざな)は子邦。別号に文斎,久斎。 』
松本万年とは - コトバンク

※奥原晴湖
『奥原 晴湖(おくはら せいこ、天保8年8月15日(1837年9月14日) - 大正2年(1913年)7月28日)は、幕末から明治期の画家。野口小蘋とともに明治の女流南画家の双璧といわれ、また安田老山と関東南画壇の人気を二分した。
本名は池田せつ(節)、通称:せい子。はじめ石芳と号するが、のちに秋琴・珠琴・蘭瑛・雲錦・静古・星古などとした。堂号(居宅・画室)に墨吐煙雲楼・繍水草堂など。下総国古河宿(現在の茨城県古河市)出身。 』
奥原晴湖 - Wikipedia

※好壽院(好寿院)
日本の医学校 - Wikipedia
詳しいことはわからなかった。

※志方之善
コチラも詳しいことはわからなかった。

※「一粒の麦 荻野吟子の生涯」(映画)
映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』公式サイト









続く。