2022/02/07 本所吾妻橋散歩 07 越後長岡藩抱屋敷跡/正一位稲荷神社/すみだゆかりの地名小梅/塚田工房・江戸木目込人形博物館/向島墨堤組合/美家古/弘福寺

水戸街道を渡ってさらに西へ。



越後長岡藩抱屋敷跡



越後長岡藩
 元和4(1618)年、牧野忠成が立藩、以来13代続いた譜代大名です。石高は7.4万石ですが、常に幕閣の中核を担い、 幕末には9代忠精、 10代忠雅、11代忠恭が続けて老中を務めました。その抱屋敷が小梅村(本所高校西側一帯)にあり、 敷地は6,760坪という広大なものでした。しかし、戊辰(北越)戦争では忠恭に仕えた家老-河井継之助の奮闘空しく敗れ、2.4万石に減封、廃藩置県の前年、明治3(1870) 年には藩が廃されました。
【抱屋敷】
 江戸時代、 全国300諸侯は参勤のため幕府より使途に応じた屋敷を拝領していました。 藩主の住む上屋敷、 隠居.世継用の中屋敷、物資の保管や保養先の下屋敷などです。これらに対し、抱屋敷は藩自らが農地などを購入して設けたもので、 大半は郊外にあり、 個人の調度品などを
保管したり、時には下屋敷としての用途にも充てられていました。








正一位稲荷神社











◆すみだゆかりの地名小梅

【名の由来】
 江戸時代、このあたりから北十間川にいたる一帯は小梅村と呼ばれていました。三囲神社の
縁起によると、弘法大師が投じた一粒の梅がこの付近に落ち、梅香原と呼ばれるようになったと
いうのが巷間伝わる名の由来です。江戸時代後期に鍛形意斎が描いた「江戸名所之絵」には
「コムメ」とあり「こんめ」と呼んでいたことがわかります。
【村の様子】
 三井家(越後屋)が江戸進出時にその名にあやかって守護神とした三囲神社、天英院(徳川
6代将軍家宣正室)が帰依した常泉寺水戸徳川家下屋敷の他、桜の名所の墨堤も近くたあり、
浮世絵にも描かれた有名料亭も周辺に数多くありました。
 文人墨客たちが集い、俳人小林一茶は「水鳥の住こなしたり小梅筋」 「鍬のえに驚鳴くや.
小梅村」と詠み、浮世絵師の歌川広重は「名所江戸百景」や「江戸高名会亭尽」で、当時の情景を
巧みに描いています。









◆塚田工房・江戸木目込人形博物館

HPがあった。
江戸木目込人形 塚田工房










向島墨堤組合

HPがあった。
向嶋墨堤組合









◆美家古

お寿司屋さんなんだね。
美家古鮨【公式】



奥に社があった。
google mapには「祠」とある。









弘福寺


弘福寺布袋尊



 黄檗宗弘福寺は、三百余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわるのである。
 布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、隅田川七福神としても敬われたのである。


翁媼尊


鐘楼


石塔


淡島寒月旧居跡

 父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島店」を経営する実業家で大地主であった。また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。明治 17( 1884 ) 年、向島弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。
 息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。
 明治 26( 1893 ) 年頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。夏目漱石の「吾輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。
 収集家としても有名で、梵雲庵には三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。


山門









続く。