2022/02/07 本所吾妻橋散歩 08 河原のあべ/長命寺/長命寺桜もち山本や/葛飾北斎/石造墨堤永代常夜灯/周辺観光案内/桜橋

ほぼ隅田川沿いを北ヘ進む。



◆河原のあべ

てんぷらやさん。
今度行ってみたい。
河原のあべ (@kawaranoabe) | Twitter








長命寺


長命寺弁財天

当寺の寺号の由来については有名な故事がある。その昔、3代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。
 長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。佛教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。


芭蕉雪見の句碑



芭 蕉の句碑は、全国で千五百余を数えるといわれますが、その中で「いざさらば 雪見にころぶ所まで」と刻まれた この雪見の句碑は、最もすぐれた一つといわれています。松尾芭蕉の門人・自在庵祇徳 ( じざいあんぎとく ) は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂としました。そして、三世・自在庵祇徳が安政五年 ( 1858 ) に庵を再興し、この句碑を建立したのです。
 芭蕉寛永二十一年 ( 1644 ) 伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間掘 ( ろっけんぼり ) に芭蕉庵を構え、談林派から出て俳諧の境地を高め、「さび」「しおり」「かるみ」に代表される蕉風を不動の地位にしました。元禄七年 ( 1694 ) 旅先の大阪で没しましたが、宝井其角 ( きかく ) など数多くの門弟を輩出してます。


勝川春英翁略傳の碑



 勝川春英は宝暦十二年 ( 1762 ) に生まれ、新和泉町 ( 現在の中央区日本橋 ) に住し、久徳斎と号した勝川派の絵師です。勝川春章の門人で、相撲絵と役者絵を得意とし、兄弟子・春好のあと勝川派を牽引しました。文政二年 ( 1819 ) 五十八歳で没し、浅草善照寺に葬られました。
 右の碑 ( 画像 ) は、文政八年 ( 1825 ) 春英七回忌に門人たちにより建立された顕彰碑です。題額と撰文は江戸時代後期の国学者・石川雅望によります。碑文には、冒頭に春英の出自と生没年、続いて春英の人柄やそれにまつわるエピソードが紹介され、最後に建碑の趣旨でしめくくられています。春英伝の基本史料に位置づけられる貴重な石碑です。
 勝川派は役者絵や相撲絵を得意とし、人物の個性を生かした表現で人気を博しました。また、春英とは同門の春朗は勝川派を離脱した後に様々な画境を拓き、のちに北斎と号しました。


勝川春英翁略傳の碑のまわりにあったほかの石塔



出羽三山の碑



 出羽三山は、山形県のほぼ中央に連なる月山、湯殿山羽黒山の総称で、古来より山岳信仰修験道霊場として発展してきました。本碑は文政十一年(1828)四月に建立されましたが、この時期を含む江戸時代後期には、主に東北、関東地方で講を組織する人々が増え、江戸においても三山登拝を行う人々が少なからずいたといわれています。
 本碑は、盛土をして高くした上に建てられています。当初の建立地は不明ですが、長命寺によれば、大正十二年(1923)頃にはすでに現在地にあったようです。
 碑の正面中央には、胎蔵界(たいぞうかい)大日如来を表す種子アーンクと「湯殿山」の文字が彫られています。そして、向かって右側に阿弥陀如来を表す種子キリークと「月山」の文字を、、側には観世音菩薩を表す種子サと羽黒山の文字をそれぞれ配しています。また、左下には揮老者と思われる「空居」の号が刻まれています。出羽三山を崇拝し紀る習慣の定着が、こうした石碑の建立につながったと分かります
 一方、裏面には、日付とともに建立に関係した人々七十九名の名前が居住地ごとに刻まれています。中には判読困難な文字もありますが、浅
草、大畑村、請地村、寺嶋村、寺嶋村新田、須崎村、小梅村、中之郷村の人々の名前を確認することができます。江戸時代後期に隅田川をはさむ向島・本所北部と浅草方面に出羽三山信仰が普及し、そこに暮らした人々が信仰を共有していたことがうかがえます。
 現在区内では、出羽三山信仰に関係する資料の発見例が少ないため、本碑は貴重な資料といえます。


成島柳北の碑



 成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。天保八年(1837)江戸に生まれました。18歳のとき、家職をついで侍講に進み、将軍家茂のために経書を講じました。慶応元年(1865)以来次第に重んぜられ外国奉行となり、会計副総裁に進み、幕政に加わりました。幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしました。慶応五年(1870)東本願寺法主に従い訪欧、翌年慶応六年(1871)に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して爺を風刺し、大いに読者を喜ばせました。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力。明治十七年(1884)十一月三十一日、48歳で没しました。この碑は実業家としての柳北の功績を記念し、明治十八年(1885)に建立されました。


山門


山門外にあった石塔

牛島神社當址
牛島神社はコチラにあったということだろうか?
調べてもわからなかった。









長命寺桜もち山本や


正岡子規居住の碑

    向じま 花さくころに 来る人の
        ひまなく物を 思いける哉
(「無何有洲(むこうじま)七草集」女郎花の巻『寄寓隅田川名所恋』)
 近代日本を代表する俳人正岡子規は、向島周辺の景色を好み、こうした歌を数多く遺している。隅田川と墨堤の自然がよほど気に入った のか、大学予備門の学生だった子規は、長命寺桜もち「山本や」の2階を3ヵ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在。そこで次の句を詠んで いる。
    花の香を 若葉にこめて かぐはしき
              桜の餅 家つとにせよ
 明治28年日本新聞社の記者として日清戦争に従軍する。その折りも
    から山の 風すさふなり 古さとの 
          隅田の櫻 今か散るらん
と墨堤の桜を偲んだ和歌を詠んでいる。
 子規という雅号だが、ホトトギスの意、その鳴声は悲壮で、「鳴いて血を吐くホトトギス」などといわれ、喀血したわが身をホトトギスに喩えている。









葛飾北斎

須佐之男命厄神退治之図
 葛飾北斎晚年期の傑作といわれている、縦1.2m 余、横 2.8m に及ぶ大きな板絵です。北斎は弘化2 (1845)年頃、牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、「須佐之男命厄神退治之図」を奉納しました。 この作品は悪病をもたらす厄神たちに今後は悪事を働かないように須佐之男命が証文を書かせている場面を描いたものです。画面右下には「前北斎卍筆齡八十七歳」 の落款があります。残念ながら大正12(1923)年、関東大震災で消失してしまいましたが、現在は原寸大の復元パネルが牛嶋神社の社殿に飾られています。










◆石造墨堤永代常夜灯



 石造墨堤永代常夜燈は、高さ五メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。
 東京府文書にょれば、 こ の常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子十七名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治四年(一八七一)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西降)へ下りる坂の頂にありました。
 設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます。発起人十七名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。
 この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。


常夜燈と渡し船

 この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。
 この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。









◆周辺観光案内


周辺観光案内


向島歴史散策案内板


桜橋とポトマック帰りの桜 ワシントンからの贈り物

 台東区墨田区隅田川を挟んで相対していることから、昭和52年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和60年に桜橋が完成しました。
 この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.ポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。 この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。
 約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。









◆桜橋

下は墨田川。



「X」字型の橋だ。




瑞鶴の図一



瑞鶴の図二










続く。