2022/02/07 本所吾妻橋散歩 09 石庭の隅田川/三浦乾也旧居・窯跡/墨堤植桜之碑/野口雨情歌碑/国旗掲揚塔/艇庫とレガッタ/言問団子

隅田川から少し東側を北上。




◆石庭の隅田川



この石庭は、墨田川上流の山あいから湧き出た清水が渓谷や平野を貫流して東京湾にいたる川筋の風景を石組で平面的に表したものです。



みっけ♪












◆三浦乾也旧居・窯跡

 天賦の才に恵まれ、若くして乾山焼 6代を襲名した。陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川破笠 ( おがわ - はりつ ) が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手がけるなど、多芸多才の士としても知られた。嘉永 6年 ( 1853 )、32歳の時に人生最大の転機が訪れる。黒船来航である。驚愕した乾山は、幕府に造艦を建白、雄藩にもその必要性を説き回った。これが認められ、翌安政元年 ( 1854 )、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴く。安政 3年、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、洋式軍艦「開成丸」を見事進水させ、一躍名を知られるところとなる。
 この功業により厚遇され、同藩には万延元年 ( 1860 ) まで滞在した。この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。
 明治に入って居を東京に移し、近県で創窯、焼物の復興にも努める。明治 8年 ( 1875 )、54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、根付、印籠、帯留めなどの捜索に励み、特に、簪 ( かんざし ) の珠は「乾也玉」の名で流行した。

 文政4(1821)年~明治22(1889)年。徳川の御家人の長男として江戸の新両替町(銀座)で生まれる。幼くして伯母夫婦に引き取られる。養父の井田吉六は将軍家斉に召され、庭焼を行うほどの高名な陶工であった。12歳でその手ほどきを受け、 15歳で終生の師と仰ぐ乾山焼5代西村議庵に
入門。吉六とともに修行。 24歳で乾山6代を襲名。江戸焼物を代表する陶工として活躍、 68歳で没す。












◆墨堤植桜之碑



 この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻です。
 墨堤の桜は、初め4代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に8代将軍吉宗が100本の桜を、享保11年(1726)には桜、桃、柳各150本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原鞠塢(きくう)、朝川黙翁、中山ト鄰が150本、天保2年(1831)に阪田三七郎が200余株の桜を植えました。弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村人が150本、安政元年(1854)に阪田三七郎が200株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
 さらに大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
 このような功績を永世に伝えるため、明治20年(1887)に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年(1896)に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。


墨堤植桜之碑と桜勧進 住民が育てた墨堤の桜

 江戸時代、花見の名所としての地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。
 墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわれています。この間は地元有志の植桜だけではなく、有志が発起人となった「桜勧進」と呼ばれる寄付が行われています。
 墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。











◆野口雨情歌碑



『都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る』
 ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年(1933)、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。
 東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念に刻し、永遠に保存する。











国旗掲揚



判読できない場所が多いため文字化を断念。
しかも何かぶつけられた跡があるね・・・。











◆艇庫とレガッタ



艇庫とレガッタ レガッタによる隅田川の賑わい

 レガッタは明治、大正時代の学生達の間で最も盛んに行われたスポーツで、 日本における発祥の地は隅田川です。
 1883年(明治16年)日本初のレガッタ向島で開催された後は、学校や企業間を問わず盛んに行われ、隅田川レガッタのメッカとなりました。現在の首都高速6号向島向島ランプ及び屋内プール体育館の辺りには「艇庫村」と称されるほど艇庫が立ち並び、レガッタの際には川岸を大勢の観衆が埋め尽くしました。しかし水質の悪化等の理由で、1967年(昭和42年)の一橋大学艇庫の移転を最後に隅田川から艇庫の姿が消えました。
 近年では水質浄化により隅田川でのレガッタが復活し、往時の活気を取り戻しつつあります。












◆言問団子


言問団子と郡司大尉

 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都島 わが想ふ人はありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。










続く。