2022/02/07 本所吾妻橋散歩 11 墨田区七福神散歩/幸田露伴旧宅幸田文生家跡/幸田露伴居住跡/旧墨堤の道/子育地蔵堂/墨通公園

まだ、鳩の街商店街を北上。
墨堤通りにぶつかる。




墨田区七福神散歩

みっけ♪









幸田露伴旧宅幸田文生家跡

現地には説明版など見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真の建物の左隣あたりになる。








幸田露伴居住跡


向島文学散歩

向島地域には、明治時代以降、魅力ある土地柄に惹かれた多くの作家が住まいを構えました。彼らは、向島での暮らしを作品に残し、かつての向島の様子を伝えてくれます。


向島界隈

 向島の地名は江戸に入ってから、浅草側から隅田川をへだてて牛島・寺島などを総称してよんだものである。
 向島の地域には、 牛島神社、常泉寺、三囲神社、弘福寺長命寺秋葉神社などの名所旧跡並に文化遺産が多い。どりわけ江戸時代代末の文化文政の頃から文人墨客の好むところとなり、寺社の境内にはさまざまなたたずまいの句碑、歌確類があり、あわせて百を軽く超える。
 向島百花園は、文化元年 (1804年)に町人佐原数鞠場が武家屋敷の跡地に開いたものである。園内には多数の梅の木が植えられ、特歌にゆかりの深い草木類が多い園の名称は、梅は百花に先がけてけて咲くの意から百花園と言われた。



みっけ♪


蝸牛庵物語

幸田露伴向島
 幸田露伴 (魔応三年(1867)~昭和二十二年(1947))は、明治,大正.昭和の三代にわたって、小說をはじめ評論や随筆、詩歌、考証研究などに幅広く活躍し、大きな足跡を残した文学者です。若き日の明治二十年代から、「風流仏」や「五重塔」など の名作を次々に発表し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と並び称されました。向島にはじめて住んだのは明治二十六年のことで、現在の白鬚橋近くにいた父母や兄が、陽田川対岸の橋場ヘと転居したのにともな い、そのあとに入ったのです。
 岐雲国と称されるこの家は、もと幕末の外国奉行だった岩瀬忠震が建てたもので、汐入りの池や梨畑のある広い庭を持っていました。

向島蝸牛庵
 露伴が岐雲園に住んだのはわずか一年ほどでしたが、数年後の明治三十年にはふたたび向島へと戻り、当地よりほど近い、雨宮酒店の隠居所を借りて居を定めました。現在、博物館明治村に移築されているこの家では、のちに作家になる娘の幸田文(あや)が生れています。
 「鍋牛庵」とは露伴の家のことで、若いころから転居続きだった自分を、殻を背負って歩くかたつむり(鍋牛)に喩えたのが由来です。
 生涯にわたって用いられた庵号で、特定の建物を指すわけではありませんので区別のためにしばしば地名を冠して呼ばれます。

当地について
 明治四十一年(1908)、露伴はみずからの設計で家を新築し当地に移り住みました。短期間の居住におわった岐雲園をのぞけば、ここが第二の向島鍋牛庵にあたります。隣には割烹料亭「雲水」の庭が広がるすぐれた環境で、中国明代の靖難の変を題材にした歴史小説「運命」をはじめ、「幽情記」や「望樹記」といった代表作がいくつも執筆されました。この家で少女時代をすごした幸田文は、当時の様子を「みそっかす」や「糞土の塘」に美しく描いています。しかし、関東大震災によって井戸水
が濁ってしまったことなどから、大正十三年、一家は十六年あまりをすごしたこの地を離れ、小石川に移転していったのです。


露伴児童遊園のこと

露伴児童遊園のこと
ここは文豪幸田露伴が明治四十一年から大正十に年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。露伴は明治二十六年冬この寺島町かいわいに来住しそれから約三十年最も力の溢れた時期をこの地にすごし数々の名作を書かれました。当時の露伴は門弟を相手に剣道、弓道、相撲、などしてよく庭で遊んだそうです。
このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷辰夫氏が区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです。


幸田露伴文学碑

 世おのづから數といふもの有りや。有りといへば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。
 洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、湯の徳これを濟へば、數有るが如くにして、而も數無きが如し。
「運命」より


蝸牛庵のくらし

露伴はこの向島蝸牛庵で執筆の合間に庭の草花を愛で、犬や鷹を飼い、将棋に打ち込み、特には・・・
ここから先は判読できない字が多いため文字化を断念。


露伴の一家

 当地に住みはじめたころの露伴の一家は、良き妻だった幾美(きみ)と娘の歌・文、息子の成豊(一郎)の五人家族でした。幾美と歌は不幸にも相次いで世を去りますが、のちに作家となる文は、弟ととも延母八代の教えと受けた子ども特代とにこの家ですごしたのです。


向島時代の日記より

淡雲徼雨、土润草鮮、よろづ心よし。
罌粟いよくさかんなり。
花いまだ開かずして梗やうやく長し。
雀歌蛙鼓、風睡り天黙せる初夏の人づかさえを頌す。
字宙仁あり、造化人を爱す。
(「六十日記」第十二)







◆旧墨堤の道


石塔

刻まれている文字が読めなかった・・・。


旧墨堤の道

 墨田川 の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間(1661~73)。徳川将軍家の休息所であった墨田川御殿(現堤通二丁目、都立東白髭公園辺り)から白髭神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には八代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島二丁目、言問通り)まで延ばして人々に地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続いていました。
 白髭神社 脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は、今は姿を消してしまった、旧墨堤の名残りです。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で、特ににぎわいました。
 関東大震災東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのは、この場所と「墨堤植桜之碑」(向島五丁目四番先)近くの湾曲部の二ヶ所だけとなっています。









◆子育地蔵堂



 この御堂に配られている地蔵菩薩は、文化年間(1804~1818)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初め は村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでい
たそうです。
 この地蔵には、次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿 いの田地で殺される事件が
おきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が村の子どものロをかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に
地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。
 その後、天保三年(1832)四月に十一代将軍徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作
このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しました。出産。眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れ
たそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。
 御堂前の坂は、明治四十四年(1911)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。
 昭和八年(1933)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は、地元出身の書家、西川寧(文化勲章受章者)が揮憂したものです。



地蔵様1

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地蔵様2

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庚申塔など









◆墨通公園








続く。