2022/02/07 本所吾妻橋散歩 12 西川春洞・寧住居跡/白鬚神社(東向島)/セイコーミュージアム跡/白髭橋東詰交差点/白髭橋/泪橋/南千住駅前歩道橋/南千住駅

白髭橋で隅田川を渡る。
明治通りを西へ進んで旧日光街道に入り北上。
南千住駅でゴール。





◆西川春洞・寧住居跡



 西川春洞は、肥前唐津藩医を父に弘化四年 ( 1847 ) 日本橋の家で生まれました。幼い頃、書を中沢雪城に学び、銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し、徐三庚を中心とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。そして、この地 ( 寺島村 1207番 ) に居を構え、多くの弟子を養成しました。
 春洞は、地域の社寺や人々の求めに気軽に応じ、多くの作品を残し、大正四年この地に没しました。
 春洞の息子寧は、明治三十五年ここに生まれ、寺島小学校 ( 現第一寺島小学校 ) に学び、慶応大学では中国文学を専攻し、さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し、昭和六十年に初夏として初めて文化勲章を受章しました。平成元年五月・目黒区中町で没しました。
( なお、住居跡は階段下・約三十メートル先の右側の辺りです )


すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう

絵本隅田川両岸一覧』は隅田川両岸を中心に高輪から吉原までを描いた全3巻25作品からなる狂歌絵本シリーズで、この作品は下巻に収められています。 秋の夕暮れが広がる画面の左では、 今戸 (現在の台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で、川緑で何やら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と瓦を積んだ舟が描かれています。画面の奥には名勝地として知られていた白髭明神社 (現在の白費神社)の鎮守の杜を配し、また右側に配された動きのある白鷺がアクセントとなっています。 飾北斎が40~47歳頃の作品です。










◆白鬚神社(東向島)



由緒
 天曆五年(西唇951年) 慈惠大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまっったと、社伝の記録は伝え下る天正十九年(1592年)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
 当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に進案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れ
た。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年に泰納したもので、その信仰のほどがしの
ばれる。明治四十年には氏子内の諏訪神社を合祀した。
偶田川七福神
 当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当たらなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い髭の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神かそろったといれる。
 隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。


江戸・東京の農業 寺島ナス

かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688〜1704)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村であったが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。

 享保20年(1735)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬とす。」として、江戸近郊の名産であることが記され、また、文政11年(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」とナスの産地だったことを示しています。

 農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ッ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。


諏訪社


三峰社


山玉向島講社の碑



 山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川元講の枝講だったと考えらています。明治八年(1875)七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中ノ郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭和具をあつらえて月拝みを行い、夏李には二十名前後の
人数で富士山を登拝していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大正十一年(1922)三月に建立しました。
 向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 大正十一年三月」と見え四代目先達玉山丈行、講元松木本葛次郎、そして当時の世話人二十二名の
名前が刻まれています。まだ、右側に立つ石碑には総勢八十二名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名
をこえる人々が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者は屋号記名した五軒を除き全て男性
です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が濡いことかぢ、基本金の奉納は地域をあげて協賛べき世揺の事業だったと考えられます。
 なお、四代目先達玉山丈行は本名を重城丈吉といい、白髭神社の氏子総代の一人でした。遅くとも大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三 日には富士登山三十三度大願成就を果たして富士吉田の御師「大番城」の屋敷に記念碑を建立していました 左に立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており、講社の沿革を知るうえでも貴重な情報を提供しています。


鷲津毅堂



 鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政八年(1825)尾張に生まれました。
 通称を毅堂または蘇州と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。
 20歳のころ江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年(1853)久留米藩に仕え、次いで、尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も子弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年(1868)調停より権弁事を任ぜられ、明治二年(1869)大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治十五年(1882)司法権大書記官となりますが、同年、十月五日、58歳で歿しました。
 なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。
 本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による碑です。


「墨多三絶すみださんぜつ」の碑



 墨田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨多三絶(←絶の古字)」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は、文政5年(1822)のことです。
 なお、絶とは五字または七字の四句で一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼びます。
 この碑(草書)は三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書)の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。
 維舟渡口歩汀名沙来飲祀前売酒家一
 道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
 不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
 欲管繁華事閑睡落花流水
 断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
 鴎邊柳処元陳迹付与詩人吟至今
 上毛淡齋佐羽芳詩壬午冬日書詩佛老人大窪行


石塔



楽殿


鳥居1


鳥居2










セイコーミュージアム

今は銀座に引っ越ししてしまった博物館。
以前来たことがある。
2015/07/22 セイコーミュージアム - ovanの社会科見学


銀座のほうにも行った。
2020/11/14 セイコーミュージアム - ovanの社会科見学











◆白髭橋東詰交差点










◆白髭橋

下は隅田川




東京ガスエネルギー東部支部










泪橋










南千住駅前歩道橋

下は旧日光街道とJRの引き込み線。











南千住駅

ゴールのJR南千住駅



ホームからTXの車両が見えた。











これで大体墨田区の行きたいところは巡りつくしたはず。
今度は台東区を重点的に攻めます。
勾配もなくて散歩しやすかったなあ。