日光街道通って南西へ向かう。
◆千住間道
◆円通寺
来たことがある。
2018/06/28 01 荒川散歩 05 眞正寺/円通寺/歴史と文化の散歩道/南千住警察署/旧千住製絨所煉瓦塀/荒川総合スポーツセンター/井上省三像 - ovanの社会科見学
百観音円通寺
延暦十年(791)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、このあたりと小塚原とよぶようになったという。
江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の入谷鬼子母神真源寺とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政二年(1855)の大地震で倒壊した。
境内には、石像七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(1296)銘をはじめとする板碑四基(区指定文化財)などがある
旧上野の黒門
この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(1868)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊氏の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と仲田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(1907)に帝室博物館より円通寺に下賜された。
板碑四基
円通寺の板碑4基の内、三基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁4年(1296)十月日銘は、日慶寺の正応二年(1289)銘に次いで二番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦四年(1329)正月二十九日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。
彰義隊の墓
慶応四年(1868)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる彰義隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
これが縁となって、明治四十年(1907)、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年(1985)に修復工事が行われている。












壁の後ろは「円通寺」
◆真正寺
来たことがある。
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※この時の寺名は「眞正寺」となっている。
寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約千六百平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ一つの門前町である。
町奉行支配地で、寛延二年(1749)三月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治二年(1869)地名を下谷真正寺町と改めたが、同十二年(1879)下谷通新町に合併された。
◆南千住商友会
商店街♪
続く。