2022/02/15 三ノ輪散歩 06 長國寺/鷲神社/富久の湯/西徳寺/マスヤ商店/花園公園/せんわ通り

鷲神社から細い路地に入り東へ進む。




◆長國寺



浅草「酉の市」発祥の寺 「酉の寺」・鷲在山(じゅざいさん)・長國寺と鷲妙見大菩薩
 当山は江戸時代、寛永7年(1630)に日乾上人 によって開山されました。山号を鷲在山、寺号を長國寺と称し、法華宗(本門流)の寺です。宗祖を日蓮 大聖人として開運招福の守り本尊である鷲妙見大菩薩 が安置されています。
 開山当時より、鷲妙見大菩薩の御開帳が11月酉の日に行われ、多くの参詣者を集めて門前に市が立つようになりました。それが浅草「酉の市」の発祥です。
 長國寺の門前市であった浅草「酉の市」は、吉原などの隆盛とともに賑わいを増し、市で売られる縁起熊手等も持て囃され、江戸庶民にとっては春を迎えるための欠かせない行事となりました。鷲妙見大菩薩は七曜の冠を戴き宝剣をかざして鷲の背に立つお姿から、「鷲大明神」「おとりさま」と呼び親しまれました。また「絵本江戸土産」では「破軍星」とも言われ、開運招福・商売繁昌・武運長久の御利益を授ける尊仏として厚い信仰を集めてきました。1年の無事に感謝し、来る年の幸いを願う「酉の市」は江戸時代から続く伝統と文化を今も変わらずに受け継いでいます。
 当山、長國寺では明治初年の神仏分離令で「酉の寺」長國寺の一部が新たに鷲神社として分割されましたが、現在も11月酉の日には多くの善男善女を集めて、鷲妙見大菩薩の御開帳の法要を行ない「酉の市」を開いております。


山門








◆鷲神社



 鷲神社は、江戸時代「驚大明神社」と称されていたが明治のはじめ「鷲神社」と改称された。
 祭神は天之日鷲命。日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の向に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が十一月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという西の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音。新吉原·猿若着町芝居小屋を控え、賑いをみせた。
 一の西、二の西、年によって三の西とあり、世俗に三の西があると火事が多いと言われる。
 西の市は、当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊手は幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ツ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。



 鷲神社は江戸時代以前より比の地にまつられ、江戸時代は鷲(わし)大明神社と号し、福運を招き、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。
 鷲大明神は天日鷲命と申され、開運· 商査資繁昌にあらだかな神として古くから崇敬されております。
 その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。 その日が十一月の西の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「西の祭」即ち 「西の市」の起源·発祥です。
 その后、日本武尊が併せまつられ、浅草 「西の祭」 「西の市」 は次第に賑いを増し、西の市に商われる縁起熊手も年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月) を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。 特に吉原遊廓の隆盛と共に賑い 「吉原のおとりさま」とも云われました。
 江戸時代からまつられている「鷲大明神」矢日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から 「鷲大明神·おとりさま」といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦禍にもお守りされ、三百年以上にわたり鷲神社に安置されております。 天日鷲命は、「東都歳時記」に “開運の守護神なり.. とあり、日本武尊と共に福運 強運·商売繁昌·武運を司どる神様として厚く信仰されておりま

「西の祭·西の市」
 歳末にあたり一年を神に感謝し、 新年を迎えるにあたり福運を願う祭りである浅草「西の市」 は、江戸の昔の華やかさとその伝統を今に伝えると共に多くの善男善女の厚い信仰を集め、今に受け継がれております。
 「西の市」は江戸時代には 「西の祭」とよばれ、人と神が和楽する祭りを意味しております。
 又、「市」は一「斎く」で神様をお祭りするために 「身を清めてつつしむ」 ということです。
 このように「祭」·「市」も本来は 「清浄な神祭」を表わしております。縁起熊手にも神社で使われる四手(紙で作った四垂れ)や神様を祭る場所であることを示す注連縄がつけられております。
 この事からも「酉の市」 の 「市」は神社の御祭神と参詣する多くの善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭を表わしており、俳教·寺とは何のかかわりのない祭なのです。
 江戸時代の 「西の市」は鷲大明神社 (鷲神社)として開かれており、当時は神俳混清といい神社と寺が一緒に運営されておりました。別当長闘寺(別当とは単に僧侶が神主を兼ねる僧職のこと。)は寛文九年に元鳥越より現在の所に移転して鷲大明神社 (鷲神社)の別当となりました。
 明治元年「神分離令」 が出され、鷲大明神社と長園寺は分離されることになり、長闘寺の別当を廃し、鷲大明神社は、 社号を鷲神社と改め、当時の長闘寺住職 田中常繁氏は鷲神社神主となり、本来の姿になったのです。
 その后、長園寺は明治四十三年、それまでの山号の本立山を驚在山と改めており、更に大正十二年の関東大震災后に南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めております。
 このように 「驚大明神社」 「驚大明神」 といわれるように 「おとりさま」 は神様をおまつりする神社であり、その御由緒により十一月の西の日に「西の市」が斉行され多人の参詣者が集い、鮮やかな感動をよび、人と祭りのふれあいを感じさせるのです。



雑閙や 熊手押あふ 酉の市     子規

樋口一葉文学碑
 此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天氣に大鳥神社の賑ひすさまじく此處をかこつけに檢査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ、地維かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき、中之町の通りは俄かに方角の替りしやうに思はれて、角町京町處々のはね橋より、さつさ押せ/\と猪牙がゝつた言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百囀づりより、優にうづ高き大籬の樓上まで、絃歌の聲のさま/″\に沸き來るやうな面白さは大方の人おもひ出でゝ忘れぬ物に思すも有るべし。


樋口一葉玉梓(たまづき)乃碑



 年毎に昔の面影を失いつつある町のたたずまいを見開きするにつけ、その当時の事どもを偲び、後世に伝えんと此に明治文壇の閏秀作家、樋口一葉の 「 たけくらべ 」 の一説、又書簡文を刻して残す。「 たけくらべ 」 は一様が竜泉寺町に住みし明治二十六年 ( 西紀1893年 )
七月より明治二十七年四月まで十ヶ月間の見聞きしたことを書きしものである。文中の鷲神社酉の市の描写は、一の様子を卓越した文章にて記している。また、樋口一葉玉梓乃碑は、師半井桃水に宛てた未発表の書簡文である。
 「 塵中につ記 」 に一葉は、明治二十七年三月二十六日に桃水を訪ねたと記されているが、この書簡はその直後のものであろう。 ”君はいたく青みやせてみし 面影は何方にか残るへき”と、につ記にも記してあり、書簡の行間にも一様の心が滲み出ているやに推われる。
 此に樋口一葉没後百年を前にし、更に平成葵酉五年の酉年を祈念し、若くして逝った一様の文才を称え、その事蹟を永く伝えんと神社ゆかりの文学碑、玉梓乃碑を建立する。


瑞鷲渡殿


楽殿


鳥居1


鳥居2










◆富久の湯

銭湯♪









◆西徳寺


第十七代目中村勘三郎墓所

『十七代目 中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう、1909年(明治42年)7月29日 - 1988年(昭和63年)4月16日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は中村屋定紋は角切銀杏、替紋は丸に舞鶴日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は波野 聖司(なみの せいじ)。 』
墓所は西徳寺(東京都台東区)。戒名は「秀峰院釋聖鏡大居士」。後従三位と勲一等瑞宝章が追贈された。 』
中村勘三郎 (17代目) - Wikipedia


山門








◆マスヤ商店

渋いお店だね♪








◆花園公園










せんわ通り

商店街♪











続く。