2022/02/21 銀座・築地散歩 03 J-POWER/森田座跡/狩野画塾跡/佐久間象山塾跡/時事通信社/商工会議所発祥の地/築地川釆女橋公園

東銀座周辺から築地市場があった方へ向かう。
2020/12/05 の日記とだいぶかぶる。
2020/12/05 築地・銀座散歩 06 森田座跡/山村座跡/商法講習所跡/銀座ライオン/元銀巴里跡/椿を持った少女像「はな」 - ovanの社会科見学

ovanrei.hatenablog.com





◆J-POWER 電源開発

この日記を書いている時点で株主です。
買った時より下がってるぞー(w
応援していますので頑張ってください!!

電源開発株式会社(でんげんかいはつ、英語: Electric Power Development Co.,Ltd.)は、日本の電力会社(発電事業者、送電事業者)。愛称はJ-POWER(ジェイパワー)。』
電源開発 - Wikipedia









森田座



 江戸時代、この地には官許の芝居のうち、江戸三座と呼ばれ、歌舞伎を興行した森田座の芝居小屋がありました。この辺りは木挽町五丁目と呼ばれており、森田座のほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋である土佐座がありました。これらの周りには芝居小屋が集まっており、賑わいを見せていたようです。木挽町の名は、江戸城築城時に多くの木挽職人(木材を大きな鋸で切る人)が居たことによるようです。
 森田座は、万治三年(1660)、森田太郎兵衛によりこの地に創設され、以後座元は代々「森田勘弥」を名乗りました。森田座は、堺町、葺屋町(現中央区日本橋人形町三丁目辺り)にあった、江戸三座中村座市村座とともに、天保十三年(1842)から十四年にかけて、猿若町一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)の町をつくり、そこに移されました。後に、安政五年(1858)「森田座」改め「守田座」となり、明治五年(1872)、現中央区の新富に移り、同八年に「新富座」と改称しました。以後、明治十二年の興行失敗から、同三十年までに「猿若座」「桐座」「深野座」「都座」などと頻繁に名称がかわったようです。明治三十年新富座に復名、同四十二年には松竹合名会社に買収され、大正十二年(1923)の関東大震災で焼失し、森田座の血脈を受け継ぐ芝居小屋は途絶えてしまいました。
 平成十三年、ここから約1km北東の京橋二丁目遺跡から、森田座の入場券である木札が出土しました。我が国を代表する文化である歌舞伎の芝居小屋が中央区で発祥し、これに直接関わる考古資料として極めて重要なものであることから、平成十七年四月に中央区文化財として登録されています。









◆狩野画塾跡

2020/12/05では工事中で説明版も見当たらなかった。



2020/12/05撮影



 江戸幕府の奥絵師(おくえし)であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(たんゆう)(守信)、尚信(なおのぶ)、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。
 木挽町狩野家の祖、仮の尚信は寛永七年(1630年)に江戸に召し出され、竹川町(銀座7丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。のち、安永六年(1777年)六代典信(みちのぶ)(栄川)の時に、老中田沼意次(おきつぐ)の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移って、画塾を開きました。
 奥絵師四家のなかでもっとも繁栄した木挽町狩野家は、諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集まりました。門人のほとんどは諸侯のお抱え絵師の子弟で、14、5歳で入門し、10年以上の修行を要しました。修業を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。
 この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の雅信(うたのぶ)(勝川)の門下生です。








佐久間象山塾跡



 この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。
 象山は初め儒学を修め、天保(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩江戸藩邸学問所頭取などを務めました。
 後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に塾を開きました。 嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十~四十人が学んでいたといいます。
 その門下には、勝海舟吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。
 木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰アメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられてて塾も閉鎖されました。








時事通信社

『株式会社時事通信社(じじつうしんしゃ、英: Jiji Press Ltd.)は、1945年(昭和20年)11月に創立された日本の民間通信社である。同盟通信社の法人サービス部門が母体[4]。国内77カ所、海外27カ所の支社や総支局 を有する。
報道機関や出版社などに事件や政治といった一般ニュースを配信しているほか、行政機関や金融機関に対して、行政・経済の専門ニュース(実務ニュース)配信を行っている。以前は略語に JP (JijiPress) を使用していたが、現在は Jiji を使用している。 』
時事通信社 - Wikipedia









◆商工会議所発祥の地

2020/12/05 の時は工事中で説明版などは見当たらなかった。



2020/12/05撮影



2020/12/05撮影



 明治維新の国是をふまえ、欧米諸国の制度文物を採り入れ、時の産業界の指導者が相携えて、明治11年1878年)3月12日、商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である。
 ここには明治24年(1891年)以来、農商務省、次いで商工省が昭和18年(1943年)まで所在し、明治、大正、昭和の三世代にわたって、日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった。
 昭和53年(1978年)3月12日、東京商工会議所創立100周年にあたり、ここに記念碑を建てて後世に残すものである。








◆築地川釆女橋公園









続く。