2022/02/21 銀座・築地散歩 05 圓正寺/法重寺/八紘一宇の碑/築地魚河岸 小田原橋棟/門跡橋親柱/善林寺/築地川公園/浅野家内匠頭邸跡

晴海通りを南東へ進んで門跡橋親柱から東へ進み築地川公園へ。
以前は気が付かなかったがお寺が結構あるんだね。

コチラの日記とだいぶかぶる。
2017/05/18 築地散歩 03 芥川龍之介生誕の地/朝野内匠頭邸跡/靴業発祥の地/新富座跡/ガス街灯柱/雙葉学園発祥の地/暁星学園発祥の地 - ovanの社会科見学




◆圓正寺









◆法重寺









◆八紘一宇の碑









◆築地魚河岸 小田原橋棟









◆門跡橋親柱



 門跡橋は、昭和三年(1928)六月に築地3丁目(現在の築地3・4丁目)と南小田原町1・2丁目(現在の築地6丁目)との間に架けられた築地川南支川の震災復興橋梁でした。
 昭和六十一年(1986)から開始された築地川の埋め立て工事や道路の拡幅工事に伴って撤去されましたが、その時に花崗岩製の親柱1基が高欄の一部とともに、この場所に移築保存されました。
 なお、門跡橋という名称は、江戸時代に同じく築地川南支川に架けられていた小田原橋の俗称から取ったものです。当初は「築南橋」という橋名が名付けられていましたが、昭和3年11月、西本願寺門徒代表以下59名から、東京市長宛に「門跡橋」への名称変更に関する陳情書が提出され、門跡橋と改称された経緯があります。
 この親柱は、復興事業の歴史を今日に伝える資料として重要であるとともに、震災復興橋梁がこの辺りに架けられていたことを物語る貴重な文化財です。









◆善林寺










◆築地川公園


備前橋跡

 橋の名称は、橋の辺に備前岡山藩邸があったことに由来しています。震災復興橋梁のひとつとして架けられました。築地川南支流に架かる橋で、小田原町(現・築地七丁目)から築地二・三丁目の間へ渡されていました。震災前は橋長14メートル、幅4メートルの木橋でしたが、震災後に橋長33メートル、幅17メートルの鈑桁橋に改架され、大正14年(1925年)5月に竣工しました。
 備前橋の上流部分の水路は昭和40年(1965年)1月に埋立てられ、平成元年(1989年)4月に区立築地川公園として開園しました。また、下流部分も昭和62年に埋立てられ、区営駐車場・駐輪場となりました。


境橋跡



 堺橋または境橋と称されます。震災復興橋梁のひとつとして架けられました。築地川に架かる橋で、小田原町(現・築地七丁目)から明石町へ渡されていました。震災前には橋長5.5メートル、幅4メートルの木橋でしたが、震災後に橋長25メートル、幅8メートルの鈑桁橋として改築され、昭和3年(1928年)7月に竣工しました。
 築地川(明石堀とも呼ばれた)は堺橋の先で分流し、南への水路が築地川南支流となり、北へ曲がる本流は合(相)引川とも呼ばれていました。この橋を境にして築地川の川筋が分かれていました。
 昭和46年(1971年)、首都高速道路の建設のため、築地川の埋立てに伴い撤去されました。


暁橋

 震災復興橋梁の一つ、築地川に新架された31.5m、幅15mの鈑桁橋で、昭和2年(1927)3月に竣工しました。
 京橋区築地に丁目(現・三丁目)から明石町聖路加病院わきへわたされていました。
 戦後、首都高速道路の建設のために、築地川が埋め立てられ、橋は昭和60年に撤去されました。



暁橋の記憶
 かつてこの場所には、築地川南支川が流れ、震災復興橋梁の一つであるラーメン橋台橋構造の暁橋が架かっていました。
 道路建設都市計画決定に伴って、昭和46年(1971)に築地川は埋め立てられ、その後昭和60年(1985)に暁橋は撤去されました。
 旧暁橋の橋名板は、平成元年(1989)に開園した区立築地川公園の入り口に設置されて以来、平成の時代を見守ってきました。


ディキャンプ場










◆浅野家内匠頭邸跡



 常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)藩主であった浅野長直(官職名·内匠頭)は、正保二年(一六四五)に領地替えによって、播磨国赤穂藩(赤穂郡とその隣接地を含めた五万三五○○石の所領)へ入封しました。そして、長直の子・長友(官職名·采女正)の代に所領の一部を親族に分知して五万石となります。延宝三年(1675)には、父・長友から家督を継いだ長矩が赤穂藩第三代藩主となり、後に祖父と同じ官職名の内匠頭を与えられました。
 江戸時代に鉄砲洲と称されていた当該地には、江戸中期頃まで赤穂藩浅野家の上屋敷が置かれていました。当時の赤穂藩邸は、西と南の二面が川(掘割)に面した広大な敷地(およそ八九○○坪)であったことが古地図からも確認できます。
 しかし、元禄十四年(1701)三月十四日、勅使御馳走役(饗応役とも)を務めていた浅野内匠頭長矩が、江戸城の松之大廊下において儀式典礼を司る高家職の吉良上野介義央に対して刃傷におよんだため、即日切腹を命ぜられました。この事件によって、江戸上屋敷や所領は没収され、赤穂藩浅野家は断絶となりました。
 なお、浅野家旧臣たちは、主君の仇を討つため、元禄十五年十二月に本所・吉良邸へ討ち入った事件は、後の世にも語り継がれる歴史的事件の一つとして知られています
 本懐を遂げた浪士たちは、浅野家の菩提寺である泉岳寺へ向かう途中で旧上屋敷付近を通ったとも伝えられており、当該地は赤穂事件に関係
する縁の地の一つとして東京都の旧跡に指定されています。










続く。