2022/02/27 田原町散歩 02 黒船稲荷神社/変なホテル/パンのペリカン/金龍寺/田原町駅/国際通り/本法寺

銀座線田原町周辺を散策。
しばらく「たわらちょう」って呼んでいたけど、ホントは「たわらまち」なんだね。



◆黒船稲荷神社










◆変なホテル

西葛西の「変なホテル」には泊まったことがある。
2021/03/27 都内桜巡り・変なホテル 02 南砂町駅/西船橋駅/猿八/西葛西駅/花月園/変なホテル - ovanの社会科見学








◆パンのペリカン








◆金龍寺


荷田在満墓(かだのありまろはか)

 荷田在満(1706~1751)は江戸中期の国学者で、京都伏見の稲荷神社の神官荷田信詮(のぶあき)の子高惟(たかのぶ)の子です。本姓は羽倉氏で、字は持之、通称は東之進、号を仁良斎などと称します。はやくに伯父であった春満の家学を継ぎます。享保一三年(1728)、和学者と に
して登用されることを求めて江戸に出て幕府に仕えます。その後、徳川吉宗の次男で有職故実の研究者として知られた田安宗武に仕え、有職故実の調査に従事し「本朝度制略考」などを著しました。元文四年(1739)、「大嘗会弁蒙」 の無断刊行により幕府の忌諱にふれ、その後、宗武との意見の対立もあり田安家を退隱しました。有職故実の研究においては精緻な家風を打ち立て、歌論では芸術主義的な立場を貫いて、近世歌論の展開にひとつの時期を画しました。宝暦元年(1751)、四六歳で没しました。









田原町駅

東京メトロ銀座線田原町駅


近くにあった地図








国際通り

この商店街の名前なんだろう?
と思って調べたら「浅草国際通り」って商店街みたいだね。
浅草国際商店街について – 浅草国際通り








本法寺



一 長瀧山 本法寺日蓮宗)について
 天正十九年(西暦一五九一)太田道灌 の居城のあった江戸城紅葉山に初代日先上人 が開山したのが 発祥の地である。
 その後北条氏が滅亡し徳川家康 が新たに江戸城を築城するさいに紅葉山から外濠にあたる八丁堀に移った。
 さらに明暦二年(西暦いち六五七)江戸の振袖火事の大火で消失し幕府が用達町人高原平兵衛 に賜与した浅草の拝領町屋敷のあった現在の地に移った。
 住居表示で現在は寿町二丁目となっているがその前の旧高原町という町名はその由来からとったものである。
一 熊谷稲荷の由来について
 江戸中期の享保年間の頃雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門 の菩提寺である当本法寺に勧請した。
 この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷として信者も多く江戸誌に参詣頗る多しと書かれているように世に名高い稲荷である。
 稲荷を祀った狐にもさまざまな種類がありそのなかでも人間に福富をわかつ福狐として白狐だけが稲荷大明神の御誉属にえらばれる資格があると云われている。
 白狐は財物に恵まれることと人生の幸福を授かると語りつがれているが熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で江戸浅草の本法寺と東北の弘前津軽藩公が祀った二箇所だけしかないきわめて珍しい稲荷で江戸時代から霊験あらたかなお守札をだしている稲荷として世に知られている。
 一の守 伝教大師から伝授された身体加護・身にふりかかるすべての災難をとりのぞく熊谷稲荷の秘法とされているお守りである。
 除火難 除盗難 のお札 浅草寺誌にもあるとおり江戸時代から御利益のあるお札として世に名高い。
 註 熊谷稲荷縁起の詳細な説明書については当寺にお申し出あればさしあげます。
一 はなし塚について
 境内に台東区教育委員会文化財史蹟の掲示板があるのでお読みください。
一 その他
 当本法寺境内には吉見稲荷、お伽丸柳一の碑、筆塚、山谷なかま塚、江川太郎左衛門 の菩提所などがあるのでご自由にご高覧ください。


吉見稲荷


熊谷稲荷


はなし塚

右隣に「扇塚」があった。



 この塚が建立された昭和十六年十月、当時国は太平洋戦争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目について自粛を強いられていた。落語界では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する囃、廓囃等五十三種を選び、禁演落語として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作といわれた「明烏」「五人廻し」「木乃伊取」等を含み、高座から聴けなくなった。 「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一堂、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本等が納められた。
戦後の昭和21年9月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。


筆塚


山門








続く。