2022/02/27 田原町散歩 08 蛙大明神/帝国湯/旧浅草鳥越一丁目/櫻稲荷神社/千代田稲荷神社/先人の碑

新御徒町駅南側エリアを散策。




◆蛙大明神

前の日記「鳥越本通り商盛会」のなかにいらっしゃった。
古いものではなさそうだね。










◆帝国湯

銭湯♪










◆旧浅草鳥越一丁目



 本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代後期の頃(1185)まで白鳥村と言われていた。日本武尊が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雉二年(651)白鳥山の山上に鳥大明神を祀うた。その後、永承(1046~1053)の頃、源義家親子の率いる軍勢が奥州征伐の友め大川を越えようとする時、白い鳥に浅瀬を教えられ無事渡る ことができたことから義家公は、これ白鳥大明神のご加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉つた。
   鳥越神社界隈今むかし
 鳥越の西端、旧西鳥越町はかつて明治大正昭和に亘り、旧二長町・竹町・小島町と隣接し家内工業地帯として栄えた。旧鳥越本通り商盛会(現おかず横町)と佐竹商店街、美倉橋通り商店街、三味線堀小売市場等が隣接し、有力商店が軒を並べていた。鳥越キネマ、鳥越日活館また近くには新東京など映画館も三館あり、 長い商店街に沿つて露店が出店するなど夜おそくまで賑わい浅草六区に次ぐ盛り場であった。









◆櫻稲荷神社



大正十二年東京大震災の後当時藤堂家邸内ニ鎮座マシマセシ稲荷神社、放置荒廃ヲ案ジ岡本悟一氏世話人トナリ現在境内ニ建立シアル石碑ニ記名奇特ノ方々ト相ハカリ昭和三年十一月新ニ神祠ヲ建立遷座ヲ奉ジ桜稲荷神社ト奉称今日ニ至ル。
以後、大東亜戦争ノ末期昭和二十年二月二十五日空襲ニヨリ神祠破壊焼却セルモ昭和二十四年春岡本悟一氏再建ス。次デ昭和二十七年四月隅井菊生氏御本体ヲ京都伏見稲荷本社に詣デ奉受シココニ改メテ鎮座ヲ拝ス。
昭和五十五年五月川西惟隆氏ノ尽力ニヨリ祭礼用器具並ニ防災用具ノ倉庫構築、昭和五十六年四月祠屋ノ修理改築ヲ行フ。










◆千代田稲荷神社



 千代田稲荷祭神は宇賀御魂神と申し、その昔、長禄元年(1457)太田道瀧が千代川城を築城の折、武蔵国千代田郷にくから龍られていた千代田神社を城内に遷座し守護神としたのがはじまりである。その後、徳川家康が慶長八年(1603)入城して千代田稲荷を城内紅葉山に移し江戸城の守護神とする一方、江戸城拡張に当り、渋谷村宮益坂遷宮し、神領を寄進したので江戸城守護および万民斉仰の神社として広く参詣を集めた。以後徳川家代々の崇敬あつく、江戸幕末の文久元年(1861)には公武合体の犠牲となって将軍家茂に降嫁した皇女和宮が、中山道を東下する宮の行列を守護した功により、石の大鳥居と桜樹一本を寄進したといわれる。これを契機に千代田稲荷が俄かに股賑をきわめ庶民の参詣が絶えなかったことが「武江年表」に記されている。
 折柄、江戸は物情騒然として物価騰貴し、世相は暗く、猿若町三座の顔見世狂言もとりやめになったため、千代田稲荷分社を勧請して、一陽米復と繁昌を祈願するに至った。江戸下町における唯一の分社である。その後、明治二十五年、最後まで猿若町に留っていた市村座下谷二長町に移転、二十七年近代建築に再建され、千代田稲荷も座の守護神として正面表口に配られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、昭和七年市村座の焼失時に奇しくも類焼をまぬがれたため、千代田会有志により現在地に再建され今日に至った。









◆先人の碑



 凸版印刷株式会社は、近代国家建設に意気揚がる明治の清新な気風のなかで、熟達した技師たちが熱き志を結集し、当時最新鋭とうたわれた精巧緻密な製版技術「エルヘート凸版法」により業を起こし、以て広く世に益することを企図して、明治33年(1900)に創業された、爾来星霜を重ねて百有余年、その間幾多の困難に遭遇するも、むしろこれを好機ととらえ事業の変革や技術の開発に取り組み、果敢な挑戦の歴史を刻んできた。
 この不屈と進取の気象は、創業以来の精神として代々受け継がれ、それがトッパンの社風を醸成してきた。顧みれば、この赫々たる事績の革新には常に人の営みがあった。そして今日の社業隆盛に導いたのは、印刷の使命に燃え、身命を捧げた、過去数万人にもおよぶ先人である。
 そこには、ひたむきな想いを成就するため奔走した創業者や、明日に向かって勇気ある一歩を踏み出した多くの人がいる。また、「誠意・熱意・創意」の三意主義を掲げ、彩の知と技をもとに、心をこめた作品を創り出すため総合品質を追求し、津々浦々を駆けめぐり商いに励んだ人びとや、日夜生産に勤しんだ人びとがいる。さらには可能性の芽を育み研究に没頭した人びとや組織を調え成長を支えた人びとがいる。
 棉芦たちは「社会から信頼され尊敬されその上で強い企業になる」ことを旗印に、こうした先人の有意にして貴重な歴史的体験を、今後の事業展開に活かしていかなければならないのである。
 ここに創業百十周年を記念して、人間尊重の精神のもと、高野山の霊地に『先人之碑』を建立し遺徳を顕彰するとともに幾久しくトッパングループ各社の先人の御霊を称揚してご冥福を祈り、併せて社業のさらなる繁栄を祈念するものである。



 過去数万人にもおよぶトッパンの先人は、幾多の困難に遭遇するも、これを好機ととらえ、事業の変革や技術の開発に果敢に取り組み、挑戦の歴史を刻んできました。私たちは先人が残してくださった、この有意にして貴重な歴史的体験を、今後の事業展開に活かしていかなければなりません。
 こうした先人のご恩に報いるとともに、「変革と挑戦」の遺伝子を受け継ぎ、常に挑戦者であり続けることを自らに銘ずるため、平成22年(2010)6月4日、和歌山県高野山トッパングループ「先人之碑」を建立しました。
 そしてこの建立の主旨を、後世にわたりすべての社員と共有すべく、凸版印刷の創業の地である、ここ秋葉原高野山と同型の「先人之碑」を建立しました。
 今後私たちは、社会から信頼され尊敬され、その上で強い企業になることを旗印に、トッパングループのさらなる繁栄のため邁進してまいります。









続く。