2022/03/05 東上野散歩 03 かっぱ河太郎/清水寺/松源寺/矢先稲荷神社/真龍寺/正定寺/松葉公園

前のエリアからかっぱ橋通りを通ったりしながら南下。




◆かっぱ河太郎



古来合羽橋は商売とは深い縁で結ばれていた 今から約二百年前の文化年間 商人として財を成した合羽屋喜八 は このあたりの水はけが悪く 僅かな雨で度重なる洪水に人々が難儀をしていることを見かね 私財を投げ出し 治水のための堀割工事を始めた ところが工事は困難を極めなかなか捗らない その様を見ていた隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ 夜な夜な現れては人知れず工事を進め さしもの難工事もついに完成した
そして その河童 を見た人はなぜかそれから運が開け 商売が繁盛したという
この故事に鑑み 合羽橋道具街の誕生九十年を迎えるにあたり ご来街のお客様ともども幾久しい商売繁盛を祈念し 台東区の協力を戴きこの地に かっぱ河太郎像 を建立する


かっぱ橋の由来

 合羽橋の由来には二つの説がある。
 その一つは、今から160年ほど前の文化年間のころ、この一帯は、水はけの悪い土地でたびたび出水を起こしていた。そこで、合羽川太郎(本名:合羽屋喜八)は、私財を投じて排水工事に着手したが、工事はことのほか難航した。昔、川太郎に助けられたことのある隅田川の河童たちは、これを見ていたく同情し工事を手伝ったおかげで、掘り割り(当時は新堀川と呼ばれた)は見事に完成した。この故事にちなんで「合羽橋」としたというものである。
 もう一つの説は、今の金竜小学校のあたりにあった伊予新谷の城主、加藤家下屋敷に住む侍や足軽が内職に作った雨合羽を近くの橋で乾かしたことで、 「合羽橋」と呼ばれるようになったというものである。










清水寺



梅がきれいだった。










◆松源寺


お堂











◆矢先稲荷神社



御由緒
当社は宽永十九年(1642年)十一月二十三日に三代将軍家光が、当地に浅草三十三間堂を建立した際、そ の堂の鎮守とDて稲荷神を索ったのに始豆ると伝えられています。
社伝いよると、そ の神像は、上野東叡山寬永寺の開山、慈眼大師天海大僧正 の寄通てあるといわれております。
浅草三十三間堂射術稽古場の的先に奉納されたために、その社名も矢先稲荷神社と称さ机孟した。

浅草、寺社景跡三十三間堂絵図
 寛永十九年(1642)「弓師備後(びんご)」「上野寬永寺天海僧正」の発企、武術奨励を願う三代将軍「家光公」の命により、浅草三十三間堂は創建されました。同じく鎮守社「矢先稲荷神社」が建立され三七七年の崇敬を集めています。
 明暦大火(明暦三年、1657)後、「火除地」に設定された当地域に寺院が建て始め、新堀川が開削された寛文十一年(1671)「浅草三十三間堂」を中心とする長閑な時代を「田中辰斎絵師」が描いています。
 南北百二十メートル丹碧の大伽藍で行われる一昼夜の「通し矢」は、江戸名所として一世を風靡した華やかな時代でした。
 残念なことに元禄十1年(1698)「軌額火事」と呼ばれる大火で焼失しました。存続すれば松葉町の様相も違ったものであったと思われます。


浅草三十三間堂

「艾政町方書上」によると、寛水十九年(1642)十一月二十三日、弓師備後(ゆみしびんご)が浅草において、慕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。
 堂創建に隙し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三開立にならい、堂の西縁を失場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。
 元禄十一年(1698)九月一日、世に「剃額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も消失。跡地は公取された。同十四年に替地を給され、三十三間室は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。
 矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。


楽殿











◆真龍寺









◆正定寺


島田虎之助の墓

 虎之助は直心影流島田派の剣客。文化十一年(1814)に豊前国中津(現大分県中津市藩士島田市郎右衛門親房の子として生まれた。十歳境から、中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学んだ。上達が早く数年後には、藩内で相手になる者はいなかったという。十六歳の春および翌年には九州一円を武者修行し名声をあげた。
 天保九年(1838)に江戸へ出て、男谷清一郎の内弟子となった。一年余で、師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。同十四年、東北方面に武者修行の後、浅草新堀で道場を開く。その道場には、勝麟太郎(のちの海舟)も通った。
 虎之助は男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれたが、嘉永五年(1852)九月十六日に39歳で病没。墓碑には、「余、哀歎ほとんど一臂を失うごとし」と男谷精一郎の銘文が刻まれている。


伊豆長八の墓

長八は鏝絵を描き、「異本日本絵類考」に、「最古の技に長ぜり」「柱等に種々に絵画を泥装するをもて、専門の業となし、又花瓶額面等に、花井鳥獣の形を塗る、世人以て絶妙の技となす」と評された人物。鏝絵とは漆喰を塗った上に・鏝で絵を描き出したもので、石灰絵ともいう。
文化十二年(1815)八月五日、伊豆国松崎で誕生した。俗に伊豆長八と呼ばれ、世に知られた。天保元年(1830)に江戸へ出て、左官棟梁源太郎の弟子となった。修行のかたわら、狩野派の画法を学び、乾道と号した。また晩年には仏教学も学んで天佑と号したという。明治三年(1870)に名字の名乗りが許されると、最初上田と名乗り、後に入江と改姓した。 明治二十二年十月八日に78歳で、深川に没すると、遺骨は正定寺に埋葬され、同時に松崎の浄感寺にも分骨された。
正定寺の墓石には、「入江家先祖の墓」と刻まれ、岩には「深川播磨屋」と養家の家号が刻まれている。










◆松葉公園



ラジオ体操制定五十年 ラシオ体操中継放送再開発祥の地

ラジオ体操は、昭和3年天皇陛下ご即位を記念し国民の健康増進を目的として郵政省(当時逓信省)簡易保険局が制定し、日本放送協会の電波にのせて全国に放送してから50年国民の愛好するところとなり体力づくりに大きな役割を果たしつつあったが、第2次世界大戦の影響を受け昭和22年8月31日で放送も一時中断の止むなきに至った。その後、戦後の復興とともに、昭和26年5月6日、3年8ヶ月ぶりにラジオ体操の放送が再開され、昭和27年6月28日中継放送再開の第一声が、ここ松葉公園から全国に放送された。これを機として台東区ラジオ体操連盟が発足し、次いで東京都ラジオ体操会連盟及び全国ラジオ体操連盟と発展し今や全国に20万人を突破する今日の隆盛を見るに至った。ここにラジオ体操制定50年と中継放送再開発祥の地を記念して長く後世に伝える。


松葉町

 この付近は元禄十一年 (1698) に勅額火事といわれる大火に見舞われ焼失した。 跡地には多くの寺院が移転し、門前町が開かれた。
 本町は、明治二年(1869) それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。 町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」を
とって名付けられたという説もある。
ー江戸上水道恩人の墓ー
 神田上水は江戸に初めて開設された上水道徳川家康天正十八年 (1590) に大久保忠行に命じて造らせた。やがて江戸の人口もふくらみ、新たに上水道の増設にせまられた。そこで命じられたのが加藤庄右衛門、清右衛門の兄弟。羽村から多摩川の水を引くことになった。難工事の末、承応三年 (一六五四) に完成した。 幕府は兄弟の功を賞して玉川の姓を与えた。聖徳寺に眠る。










続く。