2022/03/05 東上野散歩 05 聞成寺/源空寺墓地/妙清寺/真覚寺/法善寺/光照寺/西光寺/西岸寺

お寺がものすごく密集しているエリアを西へ。





◆聞成寺










源空寺墓地


伊能忠敬



 墓石は角石で、正面に「東河伊能先生之募」と隷書で刻む。忠敬は延享二年(1745)神保貞恒の子として上総国に生まれる。名を三治郎という。のち下総川佐原の酒造家・名主の伊能家を継ぐ。名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。漢詩・狂句も良くし、子斉と字し、東河と号した。
 五十歳の時、家督を譲り江戸に出て、高橋至時の門に入り、西洋暦法。 測凶法を学ぶ寬政十二年(1800)幕府に願い出て、蝦夷地(現、北海道)東南海岸の測量に着手。以来十八年間、全国各地を測量して歩いた。しかし地図末完のうちに文政元作(1818)四月十八日没す。享年七十四歳。
 地図作製は、幕府天文方が引き港2、没後年の文政四年に完成。その地図は一大日本沿海與地全図 という。また『目本輿地全図』実測興地全図,とのい 俗に『伊能図』と呼ぶわか国最初の実測精密地図てある。


高橋至時(たかはしよしとき)墓



 角石の墓碑正面に、「東岡高橋君之墓(とうこうたかはしくんのはか)」と隷書で刻み、三面には、尾藤二州(びとうにしゅう)の撰交を刻む。東岡は至時の号である。
 至時は江戸時代中期の暦学者。明和元年(1764)十一月、大坂御蔵番同心、高橋元亮の子として生まる。名を至時、字を子春、通称を作左衛門といい、東岡または梅軒と号した。十五歳で父の職を継ぐ。性来、数学・暦学を好み、公務のかたわら、それらの研究に励む。ついで、当時の天交学界の第一人者、麻田剛立(あさだこうりゅう)の門に入って学ぶ。
 寛政七年(1795)、改暦の議が幕府で起きると、師剛立の推挙で、同門の間重富とともに天交方に抜擢され、同九年「寛政暦」をつくる。一方、伊能忠敬が幕命により、実測地図を作成する際には、測量を指導し、完成させた。その関係で、二人は後世「日本地図の父母」といわれている。交化元年(1804) 一月五日、四十一歳で肺患のため没した。著書に『赤道目食法』等がある。










◆妙清寺










◆真覚寺










◆法善寺










光照寺










◆西光寺










◆西岸寺










続く。