2022/03/11 根岸散歩 04 旧陸奥宗光邸/藤島部屋/御行の松不動尊/西蔵院/防災広場根岸の里/うぐいす通り

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◆旧陸奥宗光




西宮邸(旧陸奥宗光邸)と「ちりめん本」
陸奥宗光 とその家族が住んだ屋敷
 明治期の外務大臣 として日清戦争講和条約締結や欧米列強との条約改正など日本の外交史上に大きな足跡を残した陸奥宗光(1844年~1897年)の最後の住まいは、現在の西ケ原の旧古河庭園 です。
 しかしそんな華々しいスポットライトが当たる前の雌伏の時代に、宗光はこの邸宅に住んでいました。
 陸奥宗光は、西南戦争 時に反政府的な行動をとったとして禁錮五年の刑をうけ1883(明治十六)年一月に出獄したあと、同年九月に「一邸地を購得した」のがこの邸宅です。まだここ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道 が開通したばかりのころです。
 1884(明治十七)年四月から1886(明治十九)年二月まで宗光はロンドンに留学しますが、その留守中、後年「鹿鳴館 の華」と称される妻の充子と子供たちがこの家に暮らしました。そして宗光は留学から帰国して1887(明治二十)年四月に六本木に転居するまでここで過ごしました。
 この建物は住宅用建築として建てられた洋館 の現存例としては都内で最も古いもののひとつです。もともとは現存の洋館に和風(内部は洋式)の建物が付属した接客部と、母屋に付属した離れと土蔵 二つを持つ生活部とからなる和洋館並列型住宅でした。現存する洋館部分はコロニアル様式 で建築されており、正面側の一、二階に大きな開口が連続して配置され、各部屋には暖炉が備えつけてあります。陸奥
とのかかわりという点からいうと、玄関を入るとすぐに階段があり、その階段の手脚の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹 」が彫刻されています。
 1888(明治二十一)年、宗光は借金返済と息子・廣吉のロンドン留学 費用の捻出のため、この家を売却します。
 その後1907七 (明治四十)年ごろ、「ちりめん本 」を出版していた長谷川武次郎が、自らの住まいと社屋(長谷川弘文社 )として買い取ります。
 長谷川弘文社による出版 事業は、大正、昭和と引き継がれました。現在も、この家には長谷川武次郎のご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。建物内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。

▼「ちりめん本」と長谷川武次郎
 1885(明治十八)年に、長谷川弘文社から出版が始まった「ちりめん本」については、近年ではかなり知られるようになり注目度が高まっています。
 「桃太郎 」を一冊目とする小型の「日本昔話 」シリーズ二十』などは、英語版が流布していますが、他にフランス語、ドイツ語、スペイン語オランダ語ポルトガル語など、九ヵ国語の版が確認されています。「桃太郎」の他、「舌切雀 」「猿蟹合戦 」「花咲爺 」など、多くの日本人が知っている話が取り上げられています。
 木版多色刷り の鮮明な発色の絵が美しく、欧文活字とともに削られた和紙を、何度も手間をかけて縮めて、縮緬(ちりめん)状になっていることから「ちりめん本」と称されています。
 一分の隙もない周り、相糸の緩じなど、日本の伝統技術と意匠に満ちた工芸品とも言える「ちりめん本」は、その内容と共に、海外で人気を博し、その文化にも広く影響を与えました。
 絵は主に小林水、鈴木華、新井芳宗など当時の高名浮世絵師によって描かれ、文章は、来日していた宣教師やお雇い外国人によるものが多く、中にはヘボンラフカディオ・ハーン が訳したものもあります。
 単発本も多数あり、圧巻はR・ミラー による「かぐや姫 」百ページ。また「寺子屋」「朝顔」などの歌舞伎 の題材も貴重。さらにP・ケイラス による仏教説話「カルマ 」「ニルバーナ」も異色です。J・アダン による「日本の噺家 」は、日本の寄席 風景を概細な筆致で描いています。機知に富む仕掛けを試した「八つ山羊 」などもあります。
 このように多彩な出版物を企画し、海外に向けて出版したのが長谷川武次郎です。英語に堪能で、商法講習所に学び、そこで来日外国人と接触したのでしょう。多くの彫師や摺師と親しく接し、すぐれた「ちりめん本」出版を可能にしました。日本における出版物の、海外輸出 の初陣 を飾った人物です。
石澤小枝子(児童文学者・フランス文学者)

2017年3月掲示:根岸子規会(地域の皆さんのご寄付により掲示しました)
建物内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。











藤島部屋












◆御行の松不動尊





 江戸期から根岸の大松と人々に親しまれ、「江戸名所図会」や広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその三代目である。
 初代の松は、大正十五年に天然記念物の指定を受けた当時、高さ13.63m、幹の周囲4.09m、樹齢350年と推定された。枝は傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境の悪化から昭和3年に枯死。同5年に伐採した。
 二代目の松は、昭和三十一年上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和五十一年八月、三代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土地中より掘り出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。
 御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、別名時雨の松とも呼ばれた。


御行の松由来

 左の写真は初代「御行の松」で影は明治三十五年です。
 大正十五年天然記念物指定 高さ13.6m 旨幹の周囲4.09m 推定樹齢350年 昭和三年枯死、現在の松は三代目です。
 写真の下部の堀は音無川で昭和十年に暗渠になりました。
 旧金杉村は東叡山の裾野に広がる地域で、ほぼ中央に御行の松不動堂が位置しています。明治二二年の区制制度で音無川より北側が日暮里地区、南側が根岸地区とりました。
 この松については種々の伝説があり、弘法大師、又は文覚上人が此処にて修法せし事あり、因って「お行」というなどの伝えもありますが、この松、文覚上人が活躍した七百年以上のもでなく、まして弘法大師の千年以上前の物ではなく、伐採した年輪から推定して五百年以上は経ていないと思われます。
 根岸は昔、奥州路であった由で、今から五百年前文明十八年、道興准后(聖護院宮法親王)が東北地方巡遊のおりに北陸から関東を一巡れての帰り路、浅草の石浜から上野へ向われる途中ある松原にさしかかられた。するとにわかに時雨が降り出したので、准后はどある松の大木の傘をひろげた様な枝の下に雨宿りをなされた。
 その時
   霜ののちあらはれにけり時雨をば
         忍びの岡の松もかひなし
 と、詠まれたという事が廻国雑記に書かれており、これが文献にあらわれた最古のものでこの歌から「時雨が岡」の地名が起こり雨宿りされた松を「時雨の松」と、呼ぶようになったといわれている。

 天保初年の江戸名所図会に、「時雨が岡」とは、根岸の里、庚申塚といえるより三四丁、艮(東北)の方小川に傍て、一株の古松もとに不動尊の草堂あり、里人、この松を「お行の松」と称する。一つに「時雨が松」とも呼べり、とある。按ずるに忍の岡というのは、上野東叙山の旧名で、この地も東叙山の御領分ゆえに、和歌の意をとって後世に好事の人がこう名づけたものと考えられる。
 又金杉村の古い「金杉水帳」には、「大松」と、記したものがあり、これがこの松の本名かと思われる。
 「お行の松」と、唱えたのは宝暦(約二百五十年前)以後の事らしい、それは御歴代の輪王寺の宮が、御一代に一度「御加行」、「御続堂」と、言って百日間、毎朝、種々の御修法があって、、山内にある仏字、神洞を巡拝あらせられる例であったが、宝暦以後、何時の宮であったか、御加行続堂の時に根岸の御隠殿を通って、この松の木に来り息わせられた事があったのを、宮様の御行のお休みの松という意味
で「お行の松」と称したことに由縁してかく呼ばれたと言う。
 「新編武蔵風土記」にこの松の下には不動尊の小さな草堂がありとある。
 又別説で「出羽の国湯殿山の末寺大日坊の所在せし所なる」が常州佐竹の一族、岡田左衛門なる者が、先祖の由緒ある所ゆえにとて、宝暦年中文覚上人の手彫りの一す八分の不動尊を、石の唐橿に納め
て、これを松の下にうめ、その印にとして石の不動尊をおいたと言う。
 その後文化三、寅年江府中大火の後で、一比丘尼(貞照)が、此処の里人ならびに、福生院(真言宗)主と力を合わせ、再び座を結び不動堂を建立して、堂内へ右の石像を安置し、土中の石橿を掘り出して同所に埋めしという。
 明治維新数年前に福生院は廃寺となり、不動堂は西蔵院の境外仏堂となり現在に至る。
 左の写真は初代「お行の松」の根で三木貞雄氏により彫刻された不動尊像で、前述の一寸八分の尊像並びに石像と合利されたご本尊です。











西蔵


山門


根岸小学校発祥之地

根岸小学校は明治七年二月西蔵院庫裏に第五中学区五番小学根岸学校として開校せらる。教員三名生徒六十名官給金月十円以外は悉く民費に依る











◆防災広場根岸の里











◆うぐいす通り

商店街♪












続く。