2022/03/19 三河島散歩 06 日暮里土地区割整理記念碑/夕焼け小焼けの塔/日暮里公園/荒川区立日暮里中学校跡/神々森猿田彦神社/荒川消防署日暮里出張所

前の日記「黄金湯」から今度は東へ進む。





◆日暮里土地区割整理記念碑

判読できない文字があり、文字化を断念。













◆夕焼け小焼けの塔

夕焼小焼
 夕焼小焼で日が暮れて
 山のお寺の鐘が鳴る
 お手々つないで皆帰ろ
 烏と一緒に帰りましょう
村雨



夕焼け小焼けの塔
作詞者 中村雨紅先生の略歴
明治30年 2月6日 宮吉(本名)、東京府南多摩郡恩方村、高井上恩方の 宮尾神社境内社務所にて、生まれる。
大正 5年 東京府立青山師範学校卒業。
日暮里町第二日暮里小学校へ奉職。
6年 南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる。(大正12年養 子縁組解消)
7年 日暮里町第三日暮里尋常小学校着任 (3年3月まで)。
第三日暮里小学校の児童の情操教育のために、同僚の訓導矢沢先生らとともに回覧文集を始め、童話の執筆を始めた。
8年 童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載された。
しかし、教案を書く邪魔になると校長に叱られ、以後、道を歩きながらでも考えられる童謡製作に専念するようになった。
野口雨情と出会う。その後、中村雨紅の筆名をもって、童謡を発表した。この筆名は、野口先生のようにえらくなりたいので 「雨」の一字 を もらい、「染まる」という意味の「紅」をつけて雨紅としたのである。
名曲「夕焼け小焼け」の詞もこの頃の作である。
12年 漢学者、本城問停の次女の千代子と結婚、根岸の「お行の松」の裏手に住む。
     文化楽社刊 「文化楽譜|ー新しい童謡ー」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載された。この名曲は、武蔵野音楽大学校長の福井直秋先生の依頼を受けて渡した詩に作曲者草川信先生によって曲がつけられて誕生した。
     ほどなく関東大震災のため、多くの楽 譜が失われた。焼け残った3部の楽譜を元に「夕焼け小焼け」は歌い拡がっていった。
13年 板橋尋常高等小学校へ転任。
15年 滝野川高等小学校着任。
昭和元年 神奈川県立厚木 実科高等女学校(後の厚木東高等学校)着任。
24年 神奈川県立厚木東高等学校依頼退職、教職を終える。
25年 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立五〇周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われた。
以後、雨紅ゆかりの各地にて「夕焼け小焼け」の歌碑が建てられている。
47年 雨紅病気入院の報に、全国から見舞い·激励の手紙が寄せられたが、回盲部腫傷のため逝去した。(享年75才)

 若き中村雨紅先生が本格的に童話·童謡創作活動を開始し、「夕焼け小焼け」等を作詞したのは第三日暮里小学校に勤務されていたころです。
 この縁を喜びとして、昭和8年、第三日暮里小学校の地域の方々によって「夕焼け小焼けの塔」が建てられました。













◆日暮里公園



日暮里公園の記



 その昔、現在の日暮里の大部分は「新堀」と言う地名で呼ばれていました。15~16世紀の古文書にもこの地名がみられ一説には地元の土豪が屋敷にめぐらした堀を人々がニイホリと呼び、この地の代名詞になったとも言われています。江戸時代、高台の道藩山諏訪台からの眺望が「春秋の景色、 、日の暮るを忘れる」景勝の地として知られるようになり、“ひぐらしの里(日暮の里)" とも呼ばれるようになりました。
 明治11年(郡区町村編成法制定の際)にそれまでの新堀村に変わって日暮里(にっぽり)村と表記されることになりました。
 この公園は、戦前の昭和18年に開設され「新堀、ひぐらしの里をもしのぶ日暮里公園」、として町の人々に愛されました。しかし、戦災のためこの付近一帯は焼け野原となりました。
 今回、新装された公園には、昔の里をしのぶ憩いの広場、タ日を背に自分の影で時がわかる日時計、遠く未来までも見つめる彫刻などが用意され、現代の女化を語る公園として永遠に残されます。
 由緒ある地名、日暮里と日暮里公園を後世に伝伝えるべく“日暮里公園の記”として、ここにしるします。


オブジェ

題名や作者など、どこにも記載がなかった。












荒川区立日暮里中学校跡



判読できない字が多く、文字化を断念。












神々森猿田彦神社



 江戸時代「第六天社」と称した当地を「カンカン森」と呼んだ。社前の「カンカン森通り」という通称はこれに由来する。以前はこの通りを「第六天通り」とも呼んでいた。明治中期。カンカン森は音無川沿いに開けた田圃の中にあり、竹薮が茂る淋しい所であったという。
 なお、第六天社は胡録神社に改称、後に猿田彦神社と改めた。土地の作神、守護神として旧金杉神社の人々に崇拝されている。
 境内に、胎蔵界大日如来の種子(梵字)を刻む享保十三年(1728)銘の庚申塔、根岸氏子中が文化七年(1810)に寄進した手水鉢、本殿内に「猿田彦太神」の銘を刻む自然石型の庚申塔などがある。
 この庚申塔台石正面には「峡田領金杉村大塚講中」の文字が、その左側面には14名の名が刻まれている。
 なお、毎年九月一日に4ヶ町の氏子によって当社の例大祭が行われ、1年に1度本殿が開扉される。


庚申塔など













東京消防庁 荒川消防署日暮里出張所












続く。