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◆喜運寺
門が閉ざされていたので外からお参り。
中で誰かがサッカーして遊んでいたけど、門を閉めておく必要があるんだろうか・・・・。
延命豆腐地蔵尊お参りしたかったなあ。
白山御殿とよはれいた五代将軍徳川吉の下屋敷があったところである。その後、小石川御薬園が設置され、ハ代将軍吉宗の時に御殿池すべてを薬園添地とした。
享保7年(1722)町医師、小川笙船の意見によって、 幕府の医療施設が御業園内に開設された。貧民救済を目的とし所者は病苦に悩む賞窮者に限られ治療その他一切の費用は官費による負担であった。御薬園内で出来た薬を市民に施すことから施薬院とばれた。小川笙船の予孫が代々所長を勤め山本周五郎の「赤ひげ診療憚」は、主人公、赤びげこと新出去定がこの小川氏のもとで働く医長として描かれている。明治維新後は「貧病院となるが、すぐ廃止され、まもなく東京府に所属し、植物園だけになった。当時の養生諸井戸跡が残っている。
明治10年(1877)集京大学理学部の付属植物園となり、面積約16万㎡に約3000種の樹木、約1000種2の草木類が植えられている。
白山御殿時代の遺構である日本庭園には、昭和44年本郷より解体移築された西洋式木造学校建築の旧東京医学講本館がある。同45年、国の重要文化財に指定された。
坂上。
このあたりをかつて吹上村といった。この土地から名づけられたと思われる。「吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり、」(改撰江戸志)。なお、別名「禿坂」の禿(かむろ)は河童に通じ、都内六ヵ所にあるが、いずれもかつては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。
この坂も善仁寺前から宗慶寺極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。
この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。
雑然と鷺は群れつつおのがじし
あなやるせなき姿なりけり 古泉千樫(1886~1927)
◆藤坂
坂上。
「藤坂は箪笥(たんす)町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』)藤寺とは坂下の曹洞宗伝明(でんみょう)寺である。
『東京名所図会』には、寺伝として「慶安三年寅年(1650)閏十月二十七日、三代将軍徳川家光 は、牛込高田辺御放鷹(鷹狩りのこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺と呼ぶようになった。
昔は、この坂 から富士山 が望まれたので、富士坂ともいわれた。
『続江戸砂子』に、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。また、ここの伝明寺には銘木の藤あり、一帯は湿地で、禿(河童)がいて、禿坂ともいわれた。
藤寺のみさかをゆけば清水谷
清水ながれて蕗の薹もゆ(太田水穂)
◆丸の内線高架
上は東京メトロ丸の内線の線路。
こちらをくぐって線路の反対側(西側)へ
続く。