2022/04/06 浅草散歩 01 田原町/願龍寺/長敬寺/浅草本願寺山門/満照寺/徳本寺/善照寺

24時間勤務アケで浅草散歩。
東京メトロ銀座線田原町から田原町から浅草寺北側エリアから浅草駅へ。






田原町駅北側エリアを北上。
東本願寺周辺を散策する。




田原町

スタートの東京メトロ銀座線田原町駅



近くにあった地図











◆願龍寺


柳河春三菩提 寺

 柳河春三は、天保三年(1832)二月二十五日名古屋に生まれ、神童の誉れ高く天才ぶりを発揮、さまざまな逸話を残している。二十五才で江戸にでた彼は、医を業とし、蘭学はもとより英・仏・和・漢など十一ヶ国語に精通し、著訳書も医学・薬学・理学を初め、書画。詩歌。戯作に至るまで多方面にわたり、四十余の別号を巧みに使った。幕末維新における希世の知識人で、非凡の才能を駆使して外国文明の導入と普及とに努め、多大の業績を挙げた。安政四年(1857)日本初の体系的西洋初等数学書「洋算用法」を著す。彼自身の独創も加えた異色の書で現行の算数の始祖である。また、慶応三年(1867)これも日本初の雑誌「西洋雑誌」を刊行、国語教科書の先駆「うひまなび」を編集、翌年「中外新聞」を創刊し、日本最初の新聞発行人として知られている。法号は光摂院殿釈護念居士。明治三年(1879)二月二十日、三十九才で没。当願龍寺に葬られる。


山田宗偏(そうへん)墓

 山田宗偏 (1627~1708)は江戸時代前期の茶道家で、宗偏流の祖です。京都東本顧寺末寺の長德寺住職の子として生まれ主すが、一八歳の頃に千宗旦に師事します。茶道に一生を投じ、母方の姓 の山田を名乗ります。宗旦の四天王筆頭とされます。宗旦は宗偏が二六歲の時に京都鳴滝に草庵をかまえたおりに利休伝来の四方釜を宗偏に与えます。宗偏の号四方庵はこれにちなみます。二九歲の時に師に代わり三河国吉田藩小笠原家の茶頭とじて仕えます。また、宗旦の不審庵、今日庵の号の使用も許されます。
 元禄十年(1697)小笠原長重の老中補任と岩槻転封に際し致仕し、江户に出て本所ニツ目に四方庵を構えます。これが、江戸千家茶の湯の礎となりました。宗偏は茶器の自作も多く、著書では「茶道便蒙鈔」「茶道要録」「利休茶道具図絵」などがあります。



まったくそのとおりだね・・・・。











◆長敬寺











◆浅草本願寺山門











◆満照寺











◆徳本寺



宋紫石墓

 宋紫石(そうしせき)(1716~1786)は江戸中期の画家。姓楠本、通称幸八郎、字は雪渓、雪湖、霞亭などとした。
 宝暦年間(1751-63)長崎に遊学し、清朝の画家沈南蘋の精緻な写実画をうけついだ熊代熊斐に学んだ。さらに宋紫岩の薫陶を受け、名を宋紫石と改め、遂に一家をなし、江戸に帰って、大いに南蘋派を流布させた名匠である。
 南蘋派は日本の伝統画に写実の思想を再覚醒せしめた近代日本画壇の源流であるが、その代表が宋紫石で、その流れは子の宋紫山、門人の司馬江漢、諸葛監、坂井抱一、蛎崎波響等に受け継がれる。ほかに南蘋派の写実の甚大な影響を葛飾北斎渡辺崋山にあたえている。なおこの写実に西洋画法を加えた面は、司馬江漢によってさらに発展した。
 徳本寺の墓には、紫石とその子紫山、孫紫岡が共に葬られている。またこの寺に、紫石の傑作が多数所蔵されていることは有名である。


佐野善左衛門政言墓

 佐野善左衛門政言は、鎌倉幕府御家人で「鉢の木」の逸話で著名な佐野善左衛門常世の子孫と伝えられる。
 政言は天明四年(1784)3月24日、殿中桔梗の間で、時の権力者田沼意知田沼意次の子)に刃傷におよんだ。意知は翌日死亡。政言は翌日死亡。政言も同年4月3日切腹し、28歳で一生を閉じた。幕府の公の記録は「営中において発狂せり」と断定し、私怨とも記された。田沼の政治は積極的に幕府財政を立て直したが、利権との結びつきが強く、収賄など世の指弾をあびていた。また、天明年間(1781~1788)には飢饉、大火が続き、物価が高騰して、怨嗟の声が溢れていた。この刃傷事件の翌日から、高値の米価が下落し、老中田沼意次も失脚した。徳本寺の墓には「世直し大明神」と崇め、多数の老若男女が参詣した。この庶民の方が刃傷の真因を鋭く見抜いていたのである。これを当時脚色した歌舞伎の「有職鎌倉山」は有名で、以来、現在まで度々上演されている。











◆善照寺











続く。