2022/04/06 浅草散歩 09 浅草神社/浅草寺/かわとはきものギャラリー/花川戸公園/隅田公園/浅草駅

浅草寺周辺まで南下。
その後は周辺を散策。







浅草神社

こちらと次の浅草寺はお参りに来ている。
2019/07/09 浅草散歩 04 浅草寺 - ovanの社会科見学



 明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同六年浅草神社と改称した。
 現在の社殿は慶安二年12月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんださら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。


檜前(ひのくま)の馬牧(うままき)

 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。
 東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
 浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年(1886)の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。


楽殿


初代中村吉右衛門句碑

 「女房も 同じ氏子や 除夜詣」
               吉右衛門

建碑 昭和二十八年(1953)四月二十一日

 初代中村吉右衛門 歌舞伎俳優  日本芸術院会員  文化勲章受賞
 明治十九年(1886)三月二十四日 浅草象潟町に生まれ 幼少から舞台に立って名声を得 長じて大成し 大正・昭和期を代表する歌舞伎俳優となった
 高浜虚子に師事して「ホトトギス」の同人となり 句集も三冊に及ぶ 初め秀山と号したが 後に吉右衛門の名前を用いた
 妻千代もまた浅草の生まれ この句の由緒である 昭和十四年(1939)冬の作 この碑は自詠自筆である
 実名  波野辰次郎
昭和二十九年(1954)九月五日没 享年六十八


花塚



「濁流」の花道の師、笠翁斉乱鳥の死を悲しんだ弟子たちによって建てられた。
笠翁斉乱鳥は、享和三年(1803)7月晦日死去。
享年88歳。浅草本然寺(曹洞宗、現西浅草3-25-3)に埋葬。悲しんだ弟子たちが、瓶に花を挿したが、衰える花を惜んで地中に埋め塚とした。
戦後、昭和三十一年(1956)観音堂裏手東北より移転。
  建碑 文化元年(1804)3月17日

 かめに花を挿こと古しへより聞え来れるを近き代には其花をさすにのろ有事と成り其流くさくさに分れぬ。
笠翁斉乱鳥其わざを好てこの大城のもとに濁流としなへて弟子あまた有き。こその文月つごもり、齢八十餘八にてみまかり給。浅草本然禅寺に葬ぬ。ことし3月17日、かの翁の親しき友垣に弟子の集りて、かめに花をさして手向つ。其花のなごりを空しくなさむ事を惜み、はた翁の名の朽さらん事をおもひて、浅草寺の大ひさのみ堂のうしろ清らなる所を撰て其花を埋めて花塚と名付て後の世に残しなんとす。彼弟子の中、平石氏乱雨翁え残されしほほに笠翁斉の名を残したれば人々共に計りて其事成ぬ其わきかいつけよとこはるるにいなひあへずして記つ。
  「文化元年七月千蔭」


初代花柳寿輔句碑



「雷は 田町をよけて 鳴りわたる」
初代 花柳壽輔 略傳
<出生> 文化4年2月19日、芝・新明にて出生
<6才> 文政9年、四世西川扇藏の許に入門し舞踊修業の道に入る。
<8才> 文政11年、七世市川団十郎の鑑識に叶い市川鯉吉の芸名にて舞台を踏む。
<19才> 天保10年(1839)、旧師西川扇藏の許に復帰し、西川芳次郎として振袖師の第一歩を踏み出す。
<25才> 吉原の玉屋小三郎より俳号の「花柳」なるの二字を与えられ、以後花柳芳次郎と稱す。爾後、七世市川団十郎嘉永2年(1849)、当時市川海老藏を名乗り、その俳名「寿海」に因みて「壽」の字を贈られ、29才にして初めて花柳壽助を名乗り、後に「助」を「輔」に改め、と共に、諸流に冠絶して振付の第一人者として謳はれる事、実に半世紀。その作品は一千五百種を超え、就中「土蜘」 「茨木」「戻橋」「舟辯慶」の如きは不滅の傑作と讃られる。
<83才> 明治36年(1903)1月28日、花柳流の祖としての偉業を樹て、門弟、縁者に見守られ其の生涯を終わる。


川口松太郎句碑



 川口松太郎ハ明治三十二年十月一日浅草今戸二生レル 昭和十年第一回直木賞受賞/「鶴八鶴次郎」ヲ初メトシテ小説脚本二名作多ク文壇劇壇二多大足跡ヲシルス 特二新派俳優花柳章太郎水谷八重子等ニョッテ演ジラレタ情緒豊カナ諸作品ハ観客魅了 這般功績ニョリ三十八年菊池寛賞受賞 四十年芸術院会員更二四十四年「しぐれ茶屋おりく」ノ一篇ニヨリ吉川英治文学賞受賞四十八年文化功労者ニ叙セラレル 最晩年渾身ノ筆デ連載小説「一休さんの門」ヲ脱稿後昭和六十年六月九日永眠ス 行年八十五才 三回忌二因ミ故人/終世師久保田万太郎/傍ラニ同ジク句碑ヲ
建テテ逝者ヲ偲ブ

生きるということむずかしき 夜寒かな


粧(よそおい)太夫碑(複雲女史書柿本人麻呂歌碑)



 ほのぼのと明石の浦の朝霧に
      島かくれゆく船をしぞ思う
 有名な万葉歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは、碑文にあるように蓋雲女史である。
 幸雄雲は文化年間 (1804一17)、遊里新吉原の半松楼に抱えらられていた遊女で、源氏名を粧太夫といい蔬雲はその号である。粧太夫として当時の錦絵にも描かれており 書を中井敬義に学び、 和歌もたしなむ教養ある女性で、江戸時代の代表的な文人、ら盛雲の号を贈られたほどの人物であった。
 この歌碑は、人麻呂を募慕う太夫が、文化十三年(1816)八月、人丸社に献納したものである。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現 (現在の浅草神社)の裏手にあったが、明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷社のかたわらに移され、昭和二十九年十一月、現在地に移された。


夫婦狛犬


初代 市川猿翁句碑



「翁の文字まだ身にそはず 衣がえ」 猿翁
孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。
昭和三十八年五月、歌舞伎座に於いて襲名興行。(浅草寺の襲名お練り行列は四月十六日)
『猿翁』(昭和三十九年六月東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず衣がへ 猿翁 昭和三十七年五月・猿翁襲名のとき」とある。
明治二十一年五月十日、浅草千束町二丁目に生まる。
父、喜熨斗亀次郎(初代・市川猿之助 段四郎)、母、古登の長男(弟妹は十人)兵役を終えたのち明治四十三年十月(二十二才)で二代目・市川猿之助を襲名。
昭和三十八年六月、聖路加病院(心不全)にて死去。 享年七十五才。
昭和三十六年三月二十八日 浅草三丁目三十九番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。


友情はいつも宝物

 昭和51年(1976)に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉を育み、また多くの感動を生み出してきました。この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を描いた「浅草物語」にちなみ、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず健全に成長してくれるよう願いを込めて建てられました。















浅草寺

今回はお参りだけ。




















◆かわとはきものギャラリー

今度中を覗いてみよう!
かわとはきものギャラリー|支援・相談|台東支所業務案内<靴・はきもの>|東京都立皮革技術センター














◆花川戸公園



助六歌碑
御存じ歌舞伎十八番助六」は、正徳3年(1713)土代目が初演して以来、代々の市川團十郎が嘉芸として伝えてきた演目である。この碑は九代目団十郎自作自筆の詩をきざんもので、明治12年(1879)山谷仰願寺(ぎょうがんじ)境内に建立。昭和33年花川戸の地に移建された。
助六にゆかりの雲の紫を弥陀の利剣で鬼は外なり 団州」

花川戸公園
この花川戸公園は、昭和25年に台東区立の公園として開設され長く親しまれてきた。
昭和62年度、花川戸公園は国内の歴史的事物を大切に護りながら、未沢の人々にも受されつづけられる公園になるよう盛備された。公園東側の池は、この地に伝わる一の塚伝説の舞台である地か池を、公園の修景に配慮して表わしたものである。
また、広場に設置された模様や絵タイルは、台東区の代表的な自然地と、それに深く関わりながら人々によって育み見守られて来た文化的な事物を表わしている。

姥(うば)ケ池跡
いわゆる石枕伝説の舞台となった姥ケ池は、今日その跡に碑を残すのみである。
昔、浅芽ケ原の一軒家に住んでいた老女。美貌の娘をおとりにして旅人に一夜の宿をかしては、寝込んだ所を石を落として殺し、身ぐるみはいでいた。その数999人。これを見た浅草観音は若衆に変化して訪れる。例のごとく手にかけてみれば、頭を砕かれて死んだのは自分の娘であった。


助六歌碑



 碑面には、
   助六にゆかりの雲の紫を
     弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲

の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
 歌碑は、明治十二年(1879)九世団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川1-4-6)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再建立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。
 歌舞伎十八番の「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(1832上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(足立区伊興町狭間八七〇)に墓がある。


旧浅草花川戸一・二丁目

 本町は、昭和九年(1934)、この地にあった町を整理統合し誕生した。 浅草花川戸一丁目は、浅草花川戸町大部、同馬道町四丁目東部、同馬道团六丁目南側一部、山ノ宿町南隅を合した。浅草花川戸二丁目は、浅草馬道町六丁目 東部、同猿若町一丁目南側一部、同山ノ宿町大部からなった。
 町名の由来ははっきりしないが、川や海に臨む地に戸を付けることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名が付いたのではなかろうか。
  昭和四十年(1965)、住居表示の実施で浅草花川戸一・二丁目は、浅草の二文字を略しそのまま花川戸一・ニ丁目になった。


姥ケ池



 姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋め立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。
 昔、浅茅ヶ原の一軒屋で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊した大石の下敷きになって死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。














隅田公園








 三社まつり・墨堤散歩は、参拝客でにぎわう浅草寺門前の仲見世を通り、浅草寺から墨田川、そして両岸にある桜の名所として有名な隅田公園を結ぶ桜橋までの約1.5㎞のみちのりです。下町の賑わいを楽しむ散歩道です。

隅田川浅草神社
 昭和40年(1965年)新河川法の施工で、岩淵水門から東京湾までを隅田川と定め、その名は正式な名称とされた。江戸時代、隅田川は荒川の別名であった。別名とはいえ、大川の俗称で親しまれていた。隅田川は江戸の行楽地として賑わい、江戸の水運にも大きな役割を果たした。とくに待乳(まつち)山山頂からの眺望は素晴らしく、江戸文人に称された。「浅草寺縁起」は、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が宮戸川(みやとかわ)(隅田川の古名)から観音像を拾得し、主人の土師中知(はじなかとも)邸に安置したと伝えている。浅草寺創建である。3人はその功で、神として三社神社に祭られた。三社神社は現在浅草神社という。その社殿は国の重要文化財に指定。江戸初期の代表的な権現造りである。


山の宿の渡し



 隅田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治四十年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約二250m。浅草区花川戸河岸。本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにらなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれら枚の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いてない。














◆浅草駅














友人に会いに六本木へ向かう。
続く。