浅草駅北側エリアを北上して山谷堀公園にぶつかる。
公園を少し散策。
◆守田座跡
猿若三座の一 「守田座跡」 現在は浅草六工目の一部
守田座の定式幕は、左から「黒」「柿色」「萌葱(緑)」三色の引幕であった。
現在、歌舞伎座他ほとんどの劇場が同じ定式幕を使用している。
マークの位置が二つある。
上の二つの写真が黄色いマーク。
一番下が緑色のマーク。
◆江戸猿若町市村座跡碑
猿若町は江戸役者の始祖猿若勘三郎の名に因んだ町名であり天保十三年(1842)以来、昭和四十一年(1966)十月住居表示制度の実施に到るまで続いた町名である。
1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があって明治初期までは江戸歌舞伎を中心に華美殷賑を極めたわが国芸能文化の歴史に一頁を刻んだ処である。
猪牙舟(ちょきぶね)
猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷船とも呼ばれていた。当時の江戸の人々にとって、舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変賛沢であった。
舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源は、舟の形が猪の牙に似ているからというものや、長吉という人が考案した「長吉舟(ちょうきちぶね)」が歌って「ちょきぶね」になった、と諸説あり、速度の速い舟であった。(1尺=30.3 センチメートル、1寸=3.03 センチメートル)
浅草聖天町出身の池波正太郎の作「鬼平犯科帳」の中にも多く登場している。
あこがれ
朝倉文夫
『朝倉 文夫(あさくら ふみお、1883年(明治16年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月18日)は、明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。号は紅塐(こうそ)。「東洋のロダン」と呼ばれた。舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。』
朝倉文夫 - Wikipedia
◆東京都立台東商業高等学校同窓の碑
google mapには「長吏頭弾左衛門内記屋敷跡」ともある。
『弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領。穢多頭(えたがしら)。江戸幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領などを除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の穢多非人に号令を下す権限をも与えられた。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門と称した。また、浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。 』
『弾左衛門屋敷は山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に位置し、現在の東京都立浅草高等学校の運動場あたり(東京都台東区今戸1-8-13)である。』
とあったので、おそらくここで場所はあっている。
弾左衛門 - Wikipedia
続く。