2022/04/12 北砂散歩 03 石田波郷生誕百年記念碑/アリオ北砂/江東リハビリテーション病院/松平冠山屋敷跡/精製糖工業発祥の地/歩道橋/小名木川防災公園

明治通りを南下し小名木川駅前交差点まできたら東へ移動。
で、交差点名になっている「小名木川駅」はどこにあるのかというと現在は存在しない。
2000(平成12)年まで、JR総武本線越中島支線にあった貨物駅だったとのことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%90%8D%E6%9C%A8%E5%B7%9D%E9%A7%85


松平冠山屋敷跡のあとは少し西へ戻って路地を南下する。





石田波郷生誕百年記念碑

一度来たことがある。
2018/03/02 大島散歩 10 石田波郷生誕百年記念碑/旧大島町役場跡地/西大島駅/五百羅漢跡/羅漢禅寺/旧城東区役所跡地 - ovanの社会科見学


石田波郷(はきょう)は大正二年(1913)松田氏に生れた俳人
戦後の昭和二十一年から十二年間、砂町にある妻あき子の実家で暮し、「江東歳時記」や「借命」に下町の風情や闘病中の句を詠みました。










◆アリオ北砂










◆江東リハビリテーション病院










◆松平冠山屋敷跡



 松平冠山(本名池田定常)は、明和四年(1767)旗本池田政勝の次男として生まれ、安永二年(1773)7歳で因幡国鳥取藩(島根県)の支範若桜藩(西館家・鉄砲洲家)2万石の家督を継ぎ、第5代藩主となりました。冠山は、5歳のころより地理を好み、14歳にして江戸の地名をいろは寄せにして1冊にまとめるなど、早くから学問に興味を持ち始め、儒学者佐藤一斎に学ぶこと40年に及んでいます。生涯の著述は『江戸黄檗禅刹記』や『浅草寺誌』等約70種を数えますが、現存するのはわずか15種ほどです。
 文政十二年(1829)62歳のとき江戸大火により鉄砲洲(中央区)の上屋敷が被災し、膨大な蔵書と原稿の大半を失ってしまい、亀高村の下屋敷(4千坪)に転居します。ここでの冠山は質素な生活を送りましたが、『江戸名所図会』等に序文を求められるなど、当時の著名な学者大名毛利高標(佐伯藩)・市橋長昭(仁正寺藩)とともに「文学三侯」と並び称されました。
 天保四年(1833)67歳で没し、墨田区弘福寺黄檗宗)に葬られています。










◆精製糖工業発祥の地

すぐ近くまで来ていたのに、チェックが漏れていた。
ストリートビューから・・・・。

 砂糖は8世紀に伝来し、17世紀広汎までは薬として珍重されてきたといわれています。江戸時代には、8代将軍徳川吉宗国産化を奨励、明治に入ると、日本の各地で精製糖(白砂糖)の製造が試されるようになります。しかし、いずれもうまくいかず、明治二十三年(1890)、この地に建てられていた鈴木藤三郎の製糖所でようやく成功し、砂村において日本で初めて純白の砂糖が誕生しました。
 鈴木藤三郎は、安政二年(1855)遠江国静岡県)に生まれ、明治十七年(1884)より氷砂糖を製造していました。明治二十二年(1889)、上京し、砂村に工場を移し、明治二十五年(1892)から本格的に精製糖の製造を開始しました。
 藤三郎が工場の移転地としてこの地を選んだ理由は、原料や製品の運搬に小名木川の水運がとても便利だったからです。また砂村は、砂糖の国産あの奨励地として、徳川吉宗が甘藷(さとうきび)の苗を栽培させた。極めて砂糖とゆかりの深い土地であったためでもありました。











◆歩道橋

橋名板が見当たらなかった。




道路右側をよく見ると上記の「精製糖工業発祥」の碑が写っている。










小名木川防災公園










続く。