北砂治兵衛稲荷神社まできたら今度は西へ移動。
明治通りの地下道をくぐってさらに西へ移動。
慶安(1648)のころ治兵衛という人がこの附近一帯を開拓して村の鎮守として山城の國京都伏見稲荷大社の御分霊を勧請奉祀したのが治兵衛稲荷神社のおこりであります。
蒼稲魂命とは天照皇大神の御弟素盞鳴命の御子にあたります。「うが」とは食物のこと食物の守護神であります。伊勢外宮の御祭神豊受比売命と蒼稲魂命とは異名同神にましますが、天照皇大神が特に蒼稲魂命を愛し給うたので伊勢の外宮に豊受比売命の御名で祀られて居ります。「稲荷」は文字の意味から五穀豊穣の守護神であります。白菊大神は伏見三ノ峯にあり両御祭神とも郷土交通安全特に家内安全と子供を「カワイガル」子孫の繁栄の神として古くより知られており住民の繁栄と商売繁盛をみちびき給う神でありますから篤く崇敬し奉るべきであります。
当神社は徳川時代に代官所が設置されて居た当時は代官所の守護神として崇敬されていたと言い伝えられておりました。
◆稲荷通り商交会
商店街♪
◆地下道
上は越中島支線。
◆奥村稲荷大明神
◆砂町不動明王像
ここに御安置されている不動明王像は、関東三大不動の一つ、高幡不動尊(高幡山明王院金剛寺)より授与された由緒ある尊像です。
目を怒らせ右手に宝剣を持ち左手に縄を持ち、一見恐ろしく見える憤怒の形相は、衆生を救済せんとする不動明王の慈悲の表れであります。
私達の心の中に巣くう煩悩の三毒(むさぼり・いかり・おろかさ)を焼きつくして、正しい生き方を教えて下さる不動明王さまをお詣りしてください。
◆東京大空襲・戦災資料センター
一度中を訪れたことがある。
2018/03/02 大島散歩 08 東京大空襲・戦災資料センター - ovanの社会科見学
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月10日未明、約300機のB29による下町地区を中心とする無差別爆撃は、 人口過密地帯を火炎地獄にしました。 罹災者は100万人をこえ、 推定10万人もの貴い命が失われました。 3月10日を含め、東京は100回以上もの火の雨にさらされ、市街地の6割を焼失したのです。
民間の 「東京空襲を記録する会」は、空襲・戦災の文献や物品を広く収集してきました。当研究所は、この資料を保存し都民の蒙った戦争の惨禍を次代に語りつぎ 平和の研究と学習に役立つ場にと願い、 2000年3月から募金および新資料収集をよびかけました。 この壁面裏にお名前が刻まれていますが4000名をこえる方がたのご協力により、どのような公的援助もなしに、 2002年3月9日、 戦禍のもっとも大きかったこの地に、 当センターを完成することができました。 ぜひ、お立ち寄りください。
目をそむけません
過去の苦しさ いまの世界から
決意します
核兵器も戦争もない二十一世紀をつくることを
走りつづけます
世界の平和を願う歴史のリレーランナーとして
未来へ
「世界の子どもの平和像」は、平和を願う私たち子どもからあなたへ、あなたから未来へのメッセージです。
この子どもの平和像をつくる活動のきっかけは、広島にある「原爆の子の像」の話をきいて感動したアメリカの子どもたちが一九九五年に「子どもの平和像」をたて、「世界中に子どもの平和像をたてたい」とよびかけたことにあります。
私たちは、日本がアジアの国々を侵略していったこと、東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎に原爆が投下されたこと、そして南太平洋で核実験の被害にあった第五福竜丸のことなどから、戦争や核兵器の悲惨さ、平和や生命の大切さを学んできました。そして、平和を願うたくさんの人々の思いを受けとってきました。
だから、この平和像に「核兵器と戦争のない二十一世紀を」 「ひとりひとりの人権が大切にされる社会を」 「差別や貧困のない世界を」という私たちの願いをこめています。
歴史の真実を学び、考えましょう。それは、もっともっと生命が大切にされる未来をつくることにつながるからです。
未来をつくるのは私たち子どもです。
学び、語り、伝え、ともに平和な未来をつくっていきましょう。
デザイン
「平和を築く」 阿部可奈子
ヒビの入った卵、ヒマワリに水をやる少女。
この絵には、私なりの『平和』への思いと希望をこめました。
ヒビの入った卵は、二つの意味があって、一つには「いまにも壊れそうな平和」、もう一つは「本当の平和の誕生」です。
新聞やテレビを見ていると、様々な事件があちこちで起こっています。事件が起こると言う事は平和が崩れていっていることです。事件が多発している今は、平和とは言えません。
嘘の平和ではなく、本当の平和が誕生してくれるように、という願いをこめました。卵の上部に掛かっているのは、これ以上壊れないようにする包帯であり、誕生を祝福するリボンでもあります。
岩を割って生えているヒマワリは、太陽に向かい、明るい方向へ、真っ直ぐに未来を見つめ、伸びていって欲しいと言う願いを込めています。水をやる少女は、人間の代表のような感じで、人の手で明るい未来を築こうというイメージで描きました。
戦火の下で
制作 河野 新
原型1978 設置2002,9.10
平和地蔵の建立者、石居幸蔵さんは亀戸3丁目で鉄工所を経営していたが、戦争末期に工場疎開で自宅とともに江戸川区に移転した。
3月10日の空襲の後、 亀戸の工場跡地近くに知人の安否を尋ねにいって、母と子などの夥(おびただしい)しい焼死体を見た。
これらの霊を慰めるため、子どもが地蔵尊にしがみついている平和地蔵を、1954年(昭和 29 年) 3月10日、 自宅に建てた。
それ以来3代にわたって、 2007年まで供養され、 東京大空襲・戦災資料センターに寄贈された。
遠山重子さんの実家である浅草区東三筋町の堀込家にあって、 関東大震災と東京大空襲をくぐり抜けてきた石。 これは御書院番組敷の庭石であったが、 重子さんの曾祖父がこの組屋敷の一部を購入
し、 そのまま庭石として使っていた。 1945年(昭和20) 3月10日の東京大空襲で、 東三筋町の家は全焼した。 重子さんは歴史家の遠山茂樹さんと結婚し、その後練馬に家を新築した時、この石を譲り受け
沓脱石として使うとともに歴史資料として大切に保管してきた。
続く。