前の日記「東京大空襲・戦災資料センター」からは路地を南下。
砂村新田六地蔵まで南下した後は少し戻って今度は東へ移動。
◆稲荷社
「東京大空襲・戦災資料センター」すぐ脇にあった神社。
◆末鷹稲荷大明神
◆武州妙安禅寺 江東馬頭観世音
昭和二十年三月九日夜半の大空襲により江東方面は焦土と化し殉難者は目を覆うばかりの惨状を呈したまた戦局が激しさを加えるに伴い石油が久し国内の輸送は専ら牛馬車のみに大きく依存された
江東地区特に砂町大島亀戸深川一帯は東京都内において当時最も多くの競馬業者が集中し牛馬の頭数三千有余居りその大半が空襲で厩舎や路上で焼死しさらに戦時中は軍馬として江東方面から多数徴用さ
大陸や南方において数多くの馬が戦死を遂げたのである
昭和二十八年九月競馬による運送業者が中心となりこれら愛馬の諸霊を弔い平和祈願をこめてこの地に江東馬頭観世音を建立したものである
大空襲後三十三回忌を迎えるにあたりこの志を継ぐ者が相寄り慰霊の由来を記しここに碑を建立して永く世にこれを使えることになった
◆尾高橋
下は仙台堀川公園。
◆砂村新田六地蔵
一度来ている。
2018/03/02 大島散歩 02 六地蔵/四砂小北歩道橋/尾高橋/浜東馬頭観音/南砂一丁目第二公園/南砂一丁目北公園 - ovanの社会科見学
昔、百島(むかしから、四砂小付近一帯は百島とも呼ばれていた)のあたりは、うら哀しく、もの寂しい処であった。 砂村川の支流西横川が元メ川に出会う角あたり、横川を背にして小さな石造六地
蔵が東向きに置かれていた。川面をわたる夏の風に繁茂した葦が揺れ、氷鳥があわてて空に舞い上ってゆく。
六地蔵の信仰がはじまったのは、平安末期といわれ、つねに悪業をおかし、六道に輪廻転生する衆生を救済するということから一般には寺院の門前や墓地入口に建てられるようになった。 砂村六地蔵
のように、村はずれや道端にたてれたものは、地蔵菩薩の道祖神信仰と結びついて土地の守護神とされたのではなかろうか。 なお、ここでいう六道とは、地獄(怒)、餓鬼()、畜生(愚)、修羅闘争)、人界、天上(喜悦)のことである。六体の地蔵さんは、組合せや持物、印相によって象形のちがいもあり多種多様であるという。
さて、砂村の六地蔵はいつの時代に誰が安置したものか確かにはわからない。 ある人はいう、 深川永代寺にあったものをこの辺り水難事故死など災難による死者が多く供養のため移し変えたもの。ま
或る人はいう、あのあたりに昔、お仕置場があって処刑された罪人の供養のため砂村の石屋さんが頼まれて作ったもので、その背面にどこそこの誰と名が刻まれていたと。 またその後、罪をおかし刑
場へひかれていく囚人が立ち止り悔悟の祈りを捧げると恐れおののいた気も静まり、心安らかとなり従容として死についたという。 樹間に鳥が翔び交い陰うつな空気が漂い、そのあたり常には静まりか
えっていたものと思われる。ただ六地蔵には縁者のあげる香華が絶えなかった。
江戸中期の古地図をひろげて見ると、永代寺、霊巌寺など当時の有名寺院の境内に六地蔵の名が記してあるが砂村はもとより路傍の六地蔵は記載がない。
明治維新を前後して毛利候の下屋敷内、今元メと言われるあたりに、大森方面から海苔の採取を業とする漁師が移住しはじめ調ゆる浅草海苔の生産に従事した。また百島には、お天神とよばれた秋山
総本家から分家が入植して荒地を開拓したので砂村の僻地、六地蔵周辺は急激な発展をみたのである。
時は経て、明治から大正時代になると砂村の生業も種々雑多、田畑を耕す者、海苔採取も含めて漁に出る者、川舟を使って水を売る人、土や砂利を運搬する回漕店、鳶職、木場が近いせいで川並、後
には木材を運送する馬力屋、そして飛車角や宮川など、 六地蔵の辺にも威勢のいいあんちゃんや、 夜ふかしを得意とする二代目がたむろしていても不思議でない。
さても恐ろしいのは戦争である。 昭和二十年三月九日、あの夜半からの大空襲のため、 六地蔵は瓦礫と化し江戸時代からの文化財が一つ消えて行ってしまった。
この地蔵は、戦災で焼失したため、昭和二十七年頃に戦災殉難者慰霊も兼ねて再建された。現在は「六地蔵尊奉賛会」によって守られている。
続く。