2022/05/12 深川散歩 01 門前仲町駅/永代通り/辰巳新道/深川公園/深川不動尊/永代寺/魚三

24時間勤務アケで門前仲町周辺エリアを散歩。





門前仲町駅北側エリアを散歩。



門前仲町駅

スタートの東京メトロ東西線門前仲町駅














永代通り













◆辰巳新道

昭和の香りがする路地だね!













◆深川公園






東京市深川図書館



 東京市深川図書館は、明治四二年(1909)に日比谷図書館に次ぐ東京市立の図書館として深川公園内に創立されました。当時は公園内の西南に位置しており、図書館の東側は梅園に接し、北側元られていました。建物は、東京勧業博覧会 の時に瓦斯会社が機械や材料の展示に使用Lたものを移築LまLた。総建坪は約一五○坪で、洋風多角形おょび長方形の木造平屋建ての建物を中心とLた構造でした。
 大正十二年(1923)の関東大震災により、深川図書館は建物と図書を焼失しましと図書を焼失しました。昭和三年(1928)、清澄公園內に場所を移し、鉄筋三階建ての図書館として新築されました。昭和二五年、区に移管されて江東区深川図書館と改称されました。現在の深川図書館は、平成五年(1993)に改築された 三代目の建物です。これまでの深川図書館をイメージして設計された外観や内装に加え、一部に旧材が使用され、往時をしのばせる姿となっています。


水準標



この水準標はかつて本区を襲った異常潮位を示し、水との戦いを物語るモニュメントでもある。

A・Pとは
オランダ語であって、荒川水系の基準線に用いられ、その基準線に用いられ、その零位の
略称で、A・Pゼロメートルはおよそ干潮面の高さである。


富岡八幡宮別当永代寺跡碑(深川公園)

 長盛法印が寛永4年(1627)富岡八幡宮を建立しその別当となり その坊舎を建て承応2年(1653)京都仁和寺から永代寺の寺号を与えられ 万治元年(1658)に寺が廃せられた 永代寺は今の深川公園と付近一帯の広い土地を有し 立派な庭園があって毎年春には山開と称して一般に開放された


石造燈明台



 日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治二十八年(1895)十二月に起工し、明治三十一年(1899)七月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治二十七年〔1894〕竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成十九年度に区指定有形文化財に指定され、平成二十年(2008)に現在地に移設されました。


深川公園について

 深川公園は、明治六年(1873年太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。
 この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘がありました。明治十二年(1879年)には梅、桜を植え花園として整備しました。
 明治四十年(1907年)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治四十二年(1909年)に深川図書館が建てられましたが、大正十二年(1923年)の関東大震災で焼失しました。
 震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。
 下の漆喰画(しっくいが)は、文化十二年(1815年)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治二十二年(1889年)深川で没した漆喰細工の名工左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。


深川公園と名所

東京の公園設立は、明治6年1873年)の政府による公園制定に始まる。この時、深川公園・芝公園・上野公園・浅草公園飛鳥山公園が誕生した。いずれも、江戸時代から由緒ある寺や人々の集う名所である。
ここ深川公園は元の永代寺境内に設けられた。永代寺は大きな寺で、その庭は江戸で1.2を競う名庭として有名で、富岡八幡宮や不動堂とさらに江戸屈指の名所であった。
このあたりは、江戸時代から庶民の活気あふれるいこいの場で、四季折々の行事には大いに賑わった。その姿は変わりながらも、縁日や盆踊りが行われ、ふれあいの場にして現在にいきづいている。












深川不動尊



 深川不動堂真言宗で、 成田山不動堂新勝寺の出張所して明治11年(1878) 当地に遷座され、同14年, 堂字が建立されました。
 元禄(1688~1703) の初め頃より、 江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、 元禄16年 (1703) 本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。 以来、 出開帳のたびに、 その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。


枳尼天尊(出世開運稲荷)




勝軍地蔵尊



工藤保治翁ハ年齢十五歳ニシテ始メテ成田山不動明王ヲ信仰シ終始其ノ加護霊験ヲ得テ光明安心ノ生活ヲ営ミツツアリ、時恰モ長期聖戦ニ際會シ特信深キ當堂境内ニ國威宣揚皇軍戦捷出征兵士武運長久ヲ祈願スル爲メ勝軍地藏尊像ヲ建立シ詣信スル者ヲシテ皆悉ク厄ヲ除キ運ヲ開キ永ク福録ヲ享ケシメント爾云


トンボ鉛筆寄贈の不動


深川龍神


尾上菊五郎・哥澤芝金など記念碑群



石不動 縁起

昭和の宰相吉田茂閣下が千葉県松戸市に法曹会を目指す塾を創設し、石不動を奉安して真摯に祈願の日々を送られておられましたが、大東亜戦争の空襲による災害よりお守りする為、親交厚い大倉喜七郎氏(男爵大倉喜八郎氏長男)に保護を依頼、爾来霊徳遍く石不動を大倉家の守護佛として安置いたし篤い信仰をいただいておりました。
而して過日大倉眞澄様(大倉喜八郎氏曾孫)が深川不動堂に参拝の砌、群参信徒を目の当りにして、ご参詣各位と共に家内繁栄をご祈願いたすべく石不動と併せ真言宗宗祖弘法大師石像をご奉納賜りました。
成田山内陣十六講総講元小柴宏友氏を初め、各講元。
役員諸大徳のご寛容を得て、此処講庭に奉安する。


山門


参道












◆永代寺



 地蔵菩薩半跏像は、像を描いた本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦84.0cm、横37.0cm。表装は縦178.8cm、横56.0cmです。地蔵菩薩はやや左を向いて、海中の岩座の上の蓮華座上に半跏に坐っています。また袈裟を着て、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せ、宝珠からは雲が立ちのぼっています。衣の文様には金泥や截金で装飾が施されています。
 地蔵信仰は奈良時代末ごろに日本に伝来し、平安時代後半には六道に輪廻転生する人々を救う菩薩として信仰されてきました。鎌倉時代に流布した像容は像の姿をして袈裟などの法衣を身につけ、あまねくこの世をまわるという意味から錫杖を持ち、また宝珠を持ちます。本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(14世紀)の製作と考えられます。
 本像は区内の絵画では古いもので、後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという珍しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などから絵画史上において貴重な作品といえます。



永代寺は 寬永四年(1627)に富岡八幡官別當寺して長盛上人(京都の人、俗姓管原家、寛永十三年九月二十日寂)によって永代島に創建される。當時の永代島は(現在の永代橋東側一带)隅田川河口の砂州で、長盛人がこれを開荒し、寺社地六万五百八坪多所有し一字建立する。更在深川公園辺りは、曾ての永代寺庭園の一部であった所で、平常は非公開であったが、每年三月二十一日か,二十八日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き、江戸庶民にに見物を許し大層ひ眼わいであった様子が江戸名所図会に描かれている。又将軍家違例の時や、世子誕生の折には祈祷礼を徵せられ、承応三年(1654)からは年頭独礼札の許可、元禄十二年(1699)には乗輿御免、或いは京都仁和寺修復のための富突の許可が享保十八年(1733)に出たこと等、永代寺に対する幕府の信認を示すものである。八幡宮と共に大衆に広く知られ、多くの参詣人を集める、江戸を代表する門前町の中心であったが、明治初年(1868)に発令された神仏分離を契機として行われた廃仏希釈により廃寺となるも、関東五ヵ寺随一に教えられた名刹を廃絶するに忍びず、同二十九年三月、塔頭(永代寺に付属す
る寺院をいう。十一院在り)の一つ、吉祥院(元禄五年1692・創建、開基宥範)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を長く継承する。


永代寺地蔵堂












◆魚三

一度細君と食べに来たことがある。












続く。