2022/05/12 富岡八幡宮

富岡八幡宮

情報量が多いので1ページにした。












金刀比羅神社・富士浅間神社/恵比須宮・大黒宮/鹿島神社・大鳥社












富士塚











◆永昌五社稲荷神社












◆合末社(花本社•祖霊社•天満天神社•聖徳太子社•住吉神社野見宿祢社•車祈社•客神社)



末社鳥居
昭和十二年に合末社の鳥居として建立されました。残念ながら鳥居の上部が欠落していますが、これは昭和二十年三月十日の東京大空襲の被災によるものです。
この大空襲において富岡八幡宮は御本殿をはじめ大部分を焼失しますが、幸い七渡神社。合末社。永昌五社稲荷神社は焼失を免れました。しかし空襲における焼夷弾は、この付近にも落下しその直撃を受けて鳥居上部が崩れ落ちました。
二度と起こってはならない戦争の痕跡を静かに伝えています。











◆七渡弁天社



七渡神社は八憾宮御創建以前よりお祀りされ八幡様の地主神として「七渡弁天さま」と尊ばれてまいりました
あわせてお祀りされる粟島神社は女性の守り神とされ二月八日には献針祭(針供養)が行なわれます


鳥居1


参道

針塚と庚申塔が確認できた。


鳥居2











◆資料館











◆力持ち碑











◆復興記念碑











◆お手水所



谷川の清き流れをいまここに見るここちして口すすぐなり
この水盤の石は四国の霊峯石鎚山に源を発する加茂川より採取せるもので世に伊予の青石といわれる名石であります。
又、水除け石は伊豆長岡の六万石、犬走りは常陸丹波石が用いられています。
すべて山下太郎氏の奉納によるものであります

『山下 太郎(やました たろう、1889年(明治22年)4月24日 - 1967年(昭和42年)6月9日)は、日本の実業家。その業績から「満州太郎」「アラビア太郎」「山師太郎」などと呼ばれた』
アラビア石油の創立
戦後は日本の復興のために石油資源の獲得に奔走、昭和31年(1956年)、日本輸出石油株式会社を創立し、翌1957年にペルシャ湾海底油田の開発利権を獲得して1958年「アラビア石油株式会社」を創立した。山下は、産業の根幹をなす石油が100%アメリカ合衆国の供給と統制に依存している現実を危惧しており、日本国政府・財界等の要路をまわり、経済発展のため日本が自前で確保するよう説いて回ったといわれている。世界の予想に反して、サウジアラビアクウェートの両国から採掘の利権を獲得したが、とくにクウェートが数多くのライバルの中から日本に権利を与えたのは、山下の努力・人柄もさることながら、欧米諸国に対するアラブ人たちの民族感情が左右していたともみられている。
山下が苦心して採掘権を得て設立したアラビア石油は1960年1月31日、1回目のボーリングで大規模海底油田(日産1,000kl)を発見した[2]。これが、カフジ油田であり、世界第1級の大噴油について「アラビア太郎、100万ドルの笑顔」と世界中で報道された[2]。以降も順調に石油メジャーに拠らない「日の丸油田」と呼ばれる油田の発見と採掘・輸出を進めた。
山下太郎は心筋梗塞のため昭和42年(1967年)、78歳にて死去した。周囲にのこした言葉は「俺はまだやることがある」であったという。故郷の横手市大森町大慈寺に墓がある。死後、民間人としてはめずらしい従三位勲一等瑞宝章が追贈された。 』
山下太郎 (アラビア石油) - Wikipedia











横綱力士碑

 この横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五郎が中心となり、明治33年(1903年)に建てられました。重量は約五千五百貫(約20t)あり、初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれています。
 古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(1684年)の富岡八幡宮境内でした。その後、明和年間(1764~1771)には、春・秋二場所のうち一場所がこの地で開催され、享和元年(1801年)までに本場所31回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥地といえます。
 偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣幕久五郎顕彰碑
(じんまく きゅうごろう)・不知火諾右衞門顕彰碑(しらぬい だくえもん)や周辺の石造物(魚かし石柱、土台下玉垣は大正末ごろ)とともに、相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。



当宮では貞享元年(1684)に幕府の公 許のもと初めて勧進相撲が行われ, 以後年ニ 場所の相撲興行が定期的に行われた事により 江戸勧進相撲発祥の地として知られるように なりました。
初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻 まれたこの碑は, 第十二代横綱陣幕久五郎が 発起人となり各界の協賛を得て奉納されたも のです。
なお, 正面参道・大鳥居手前左側には「大関力士碑」が建立されています。



出羽海一門友愛之碑
かつて出羽海部屋春日野部屋を中心とせる出羽海一門に所属し、相撲技に励みたる者たち、それぞれの社会より集いて、親睦のため「出羽海一門友愛会」を結びたるは昭和三十一年一月なり。
一門の弥栄と相撲道の隆盛を祈り江戸勧進相撲ゆかりのこの地に友愛の碑を建つるものなり。











◆弁天池











◆森羅万象歌碑など碑群











◆木場木遣碑











木場の角乗











◆馬神











◆婚儀殿










昭和天皇、救国のご決断と富岡八幡宮/願掛けの八角十二支/天皇陛下御野立所



富岡八幡宮友の会」とは、富岡八幡宮という江戸時代から日本を代表してきた神社の由来に深く思いを起こし、感謝を込めて、これからの東京の発展と、日本の安全と繁栄を願い、世界に貢献することを誓う有志が集まり設立されたものです。
代表幹事    加瀬英明
呼びかけ人   小林祥晃(Dr.コパ)、浜田マキ子村松えり
発起人     安倍洋子、石山五郎(三重ノ海剛司)、加藤睦子、佐々木ベジ、新村鋭男、林原健、水上逸朗、村松英子
特別顧問    マンリオ:カデ口(在日外交団長)
協力      株式会社アイエム、株式会社林原チャンネル、株式会社オフィス· コパ、株式会社かます東京
石碑建立事業者 株式会社アイエム




昭和天皇、救国のご決断と富岡八幡宮
 昭和十九(1944)年十一月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年十月に靖国神社例大祭行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は三月十日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、三月十八日日曜日午前9時から一時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると。大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が八月十五日に終結伊した。八月十五日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮例大祭に当たった。終戦富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。



願掛けの八角十二支
はじめに昭和天皇の記念碑に一礼したのちご自身の「干支」を利き手で触ります。
その後、願掛けをしたいことを心で想いながら次の要領で石碑を触ります。
願い事はひとつひとつ
願いがかなった場合は、神様にご報告に訪れてください。











天皇陛下御製

身はいかになるともいくさとどめけり
    ただたふれゆく民をおもひて
元侍従次長 鈴木一謹書











◆灯籠

この灯篭一対は江戸時代関東郡を世襲した伊奈家十代伊奈忠宥により宝暦年間当宮に寄進されたものです











◆富网人幡宮本 神與



(日本一の大神與)
八幡宮には、江戸時代深川长屋救执のあった紀伊国屋文左衔門より三社託宣旦に因み八幡造り・神明造り・春日造り・三基三様の神興が奉納きれ、みこし深川と云われて参りましたが大正十二年の関東大震災で惜しくもその金てを焼失してしまいました。それ以末、御本社神興の復活は深川っ子の念願てありましたが、平成の御世になり漸く、昔に優るとも劣らない豪華な大神奥が復活致しました。
型の名称    屋根延神社型金地塗神輿
台輪幅     五尺
高さ      十四尺五寸
重さ      量四・五トン (渡御時における推定)
屋根6大きさ   最大幅十尺(蕨手装着時)
担ぎ棒     十本(本棒二本縱添棒B眾橫添棒四本)
ダイヤモンド  鳳凰の日(四カラットニ個)鳳凰の火焰(七カラット)
        拍犬の目 (三カラット ニ個、一対)
        隅木の目 (一カラット 二個、四体)
        小烏の目 (一カラット 二個、四体)
ルビー     鳳凰の鶏冠(二〇一〇個)











◆力士碑牌




 当宮は江戸勧進相撲発祥の地とLて知られ、明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱力士碑(李殿に向かって右側の奥) が建立されましたが、この大関力士碑は歴代の大関を顕彰し (横綱に昇進したカ士と実際に取組みには入らなかった看板大関を除き主す)昭和五十八年に建てられた陣で、九代目市川国十郎と五代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を利用しています。


釈迦嶽等身碑
寛延二年(1749)出雲国(現安来市)に出生。松平家のお抱え力士雷電為五郎の弟子となり大坂で初土俵、明和七年(1770)江戸番付に東大関として登場する。身の丈七尺五寸(二米二六糎)四拾五貫八百匁(一七二瓩)の巨体があった。江戸在場所中の成績は二三勝一分一預という高い勝率を残した。安永四年(1775)若干二十六才にて没したのは惜しまれる。この碑は天明七年実弟の真鶴咲右衛門により建立された。











伊能忠敬銅像



 近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと五〇歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町一丁目)に隠宅を構えていました。
 約二〇〇年前の寛政十二年閏四月十九日(陽暦では一八〇〇年六月十-日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。
 忠敬先生はこのときを含めて全部で一○回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第八回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。
 伊能測量開始二○○年にあたり、「伊能ウォーク」、地図·測量、土地家屋調査士伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。



世界測地系の採用を記念して
 全世界共通の地球上の位置を表す測量及び水路測量の基準を「世界測地系」といいます。
 わが国は平成13年(2001年)6月の測量法の改正により日本独自の測地系から世界共通の世界測地系に変更することになりました。
 この世界測地系を採用した記念として、測量技術が21世紀のグローバルで豊かな社会に貢献できることを願って、社団法人 全国測量設計業協会連合会の創立40周年にあたり、このモニュメントを建立したものです。

三等三角点「富岡八幡宮
経度   35度40分15秒61
緯度  139度47分56秒74
標高        1.2m











◆鳥居