平成通りをもう少し南へ進んだ後細い路地に入り西へ移動。
首都高速都心環状線脇道を今度は北へ移動。
永代通りまで出たらまた平成通りにぶつかるので今度は北へ。
◆茅場町の桜並木
桜が咲いたら綺麗だろうね!
来年は来てみたい。
鳥居稲荷神社の由来
当神社の祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を主神に豊受姫神(とようけひめのかみ)が合祀されていますが鎮座の年代は不詳です。
東京市史稿によれば享保二年(1717)この地に鳥居丹波守忠瞭(下野壬生(しもつけみぶ)藩主)の上屋敷があり神社はその庭中に祀られ代々厚く信仰されていました。
享保六年(1721)の大火により類焼し跡地は神田塗師町・新銀(しんしろがね)町・松下町の代地として町家街となりました。この三ヶ町から引き移った人々も当社の奇瑞(きずい)多く、かつ神徳顕著なことを聞き共に力を合せ社殿を造営し、鳥居家の邸内に鎮座されていたことに因って鳥居稲荷神社と崇(あが)め維持、営繕、祭典などに力をつくしました。
昭和二十年三月十日の空襲で社殿を焼失、昭和二十八年八月(1953) 宗教法人として登記、昭和四十四年三月(1969) 町内有志の盡力により鳥居稲荷神社崇敬会を発足し、昭和五十二年(1977)社殿を改築、現在に至っております。
なお隔月に月次(つきなみ)大祭が行われています.
◆「赤石」 渋沢栄一ゆかりの赤石
摂社日枝神社は天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入城、日枝大神を崇敬されて以来、御旅所の存する「八丁堀北嶋(鎧島)祓所」まで神輿が船で神幸された事に始まります。
寛政十二年(1800)の江戸名所図会巻二では、神主樹下氏持ちの山王宮と別当観理院持ちの山王権現の遥拝の社が並び建ち、隔年六月十五日の山王祭の際は、この二社の手前に仮殿が設けられ、永田馬場の本社からの神輿三基を中心とする供奉行列の神幸があり、実に大江戸第一の大祀にして壮観であったと伝えられています。
明治元年神仏分離令により薬師堂と同別当智泉院の敷地は境内から分離されました。明治十年に山王宮は無格社日枝神社に、大正四年には本社の官幣大社昇格に伴い摂社日枝神社と改称されました。現在の社殿は大正十二年九月の関東大震災後、昭和三年に造営され、境内末社(北野神社・稲荷神社・浅間神社)が合祀されました。昭和二十年三月の東京大空襲により罹災しましたが、直ちに補修を行い、昭和四十一年に御屋根葺替と大修理を加えました。平成二十二年には再び、老朽化した社殿に外装工事を施し今日に至ります。なお正面の石鳥居は、万治年間に本社石階段下に設けられましたが、昭和三十六年に現在地に移設されました。
薬師の植木市
明治元年神仏分離により当社と薬師堂・智泉院は分離されましたが、それまで江戸名所図会(下記参照)にあるように山王の「本地(仏の姿)とされ、同じ境内地にありました。
右図は茅場の薬師堂の植木市に来ている美人図並びに植木市のにぎわいの様子が描かれています。
続く。