日本橋川北側の細い路地を東へ歩き新大橋通りにぶつかる。
通りから少し入ったところにある神社など巡りながら進んでいく。
途中細い路地に入り北西へ進む。
◆茅場橋
下は日本橋川。
◆西郷隆盛屋敷跡
明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷がありました。
明治六年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町一丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に一五人ほどの書生を住まわせ、下男を七人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
維新後、西郷は郷里鹿児島にいましたが、明治四年に新政府から請われて上京し、参議に就任、同年十月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
明治六年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の使節派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治六年の政変)。
下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。 鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治十年に西南戦争を起こし自害しました。
◆鯨と海と人形町
作
作松橋博
中田浩嗣
あやつり人形のバネは今でも鯨ヒゲが使われています。
特に人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲでなければ出せないそうです。
ここ人形町一帯は寛永十年(1633)頃から、江戸歌舞伎の「市村座」 「中村座」、人形浄瑠璃の糸あやつり人形結城座、手あやつり人形の薩摩座などの小屋が集まり、江戸町民の芝居見物が盛んでした。
そして、それらの人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店がたくさん立ち並んでいたところから、昭和八年、正式に人形町という地名になりました。
続く。