2022/05/23 茅場町・人形町散歩 05 谷崎潤一郎生誕の地/玉ひで/小菊通り(芸者新道)/玄冶店跡/人形町末廣跡/人形町の由来

人形町駅南側エリアを散策。





谷崎潤一郎生誕の地




 谷崎潤一郎(1886~1965)は、明治十九年七月二十四日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。
 同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青(しせい)』、『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文芸界で名を成しました。
 のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼(たで)喰ふ虫』、『春琴抄(しゅん きんしょう)』、『細雪』、『少将滋幹の母』などを遺しています。その間、昭和十二年、芸術院会員に推され、同二十四年には文化勲章を受章しました。









玉ひで

今度は食べに来てみたい。
玉ひで 創業宝暦十年(1760年)鳥料理 すき焼き 親子丼










◆小菊通り(芸者新道)










◆玄冶店跡



玄冶店(げんやだな)跡
 江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれてました。
 岡本玄冶(1587~1645)は京都に生まれ、医術を曲直瀬(まなせ)道三(玄朔)に学びました。元和九年(1623)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院と号しました。
 三代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には、寛永十年(1633)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀二百枚を賜ったことが記されています。
 岡本玄冶の拝領屋敷は『寛保沽券図(かんぼうこけんず)』によると、「表京間六拾間 裏行京間二十五間 坪数千五百坪」とあります。当地にはその後、九代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。玄冶は正保二年(1645)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。
 玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐(じょこう)が脚色し、嘉永六年(1853)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。










人形町末廣跡

この地は、幕末の慶応3年(1867)から昭和45年(1970)までの103年間、人形町末廣として多くの人に親しまれる落語定席でした。客席がすべて畳敷きというのが特徴で、マイクなしでも客席の隅々まで演者の声が聞こえる造り等、今でも伝説の寄席と称されています。平成16年(2004)に広告会社「読売IS」本社ビルが建設され、現在に至っています。










人形町の由来



江戸が開府され20年ほど過ぎ、 現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。 大芝居の中村座市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、 また人形操り芝居、 浄瑠璃芝居、 見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、 江戸時代より俗に「人形丁通り」 と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理昭和8年になってからです。




現在の人形町交差点北側一帯には、江戸唯一の歓楽街が在りました。 中村座市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また見世物小屋をはじめ人形芝居の小屋が5,6軒あり、 そのため、かなりの人形師がこの町に住んでいたので、江戸時代より俗に人形町と呼ばれ親しまれてきました。









続く。