南西方向へ進んで江戸橋で日本橋川を渡り、日本橋川沿いに南東へ進む。
◆日刊工業新聞社
『日刊工業新聞(にっかん こうぎょうしんぶん)は、日本の産業経済紙。紙媒体のほか電子版もある。発行元は日刊工業新聞社。』
日刊工業新聞 - Wikipedia
江戸時代初期から昭和初期まで、日本橋本町一丁目と日本橋小舟町の境界沿いには掘割(明治中期頃まで「伊勢町堀」と称し、後に「西堀留川」と名称変更)がありました。
この掘割は、日本橋川から北西に入り込み、旧堀留町一丁目(現在の日本橋本町二丁目7番)の手前で西へと屈曲して旧室町三丁目(現在の日本橋室町二丁目3番)の前で留まる”かぎの手状の入堀”でした。 日本橋地域の中心に位置するこの船入堀には、穀物や乾物を中心に全国各地から物資が運ばれ、河岸地は荷揚げ場として大いに利用されていました。
米蔵が建ち並んでいた堀の西岸は、江戸に輸送されてきた廻米の陸揚げ地であったことから「米河岸」と呼ばれ、鰹節や塩干肴の問屋が多かった小舟町に面する東岸は、「小舟河岸」と呼ばれていました。さらに、西に折れた入堀の河岸地は、周辺に塩問屋があったことから「塩河岸」(明治十年、北岸は「北塩河岸」、 南岸は「南塩河岸」の名称となる)と呼ばれていました。
江戸時代以来、大量の回漕物資が集積・荷揚げされたこの掘割は、明治十九年(1886)に西側に屈曲した入堀部分が埋め立てられ、昭和三年(1928)には関東大震災後の区画整理事業で残りの入堀が埋め立てられてその姿を消しました。
当地の様子を描いた『江戸名所図会』には、舟運と荷揚げの便が図られていた頃の挿絵があり、往時の繁栄ぶりがうかがえます。
◆江戸橋
下は日本橋川。
日本橋郵便局 郵便発祥の地
ここは、明治四年三月一日(1871年4月20日)わが国に神式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです。
続く。