2022/05/26 飛鳥山 渋沢史料館 見学


定例の見学会。
メインはこの渋沢資料館。


こちらは渋沢栄一の資料が展示されている。
今度の1万円札の肖像に決まったことや、大河ドラマにもなったことでかなり有名になったと思う。

飛鳥山渋沢栄一が住んでいたことがあり、当時から残っている建物を見学することができた。
資料館外にあるゆかりの建物内を見学したい方は渋沢資料館のチケットが必要。
写真は25日に下見に来たときのと両方を使っている。

一度来たことがあり、図録も持っているのだが、前回来た時の日記が見当たらない・・・。
mixi内に残っていると思う。







◆ようこそ渋沢庭園へ

曖依村荘(あいいそんそう)跡
 飛鳥山公園の一角は、 渋沢栄一が、 1879 (明治12) 年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、 後には本邸として住まいした 「曖依村荘」 跡です。 約 28,000㎡の敷地に、日本館と西洋館をつないだ母屋の他にも色々な建物が建っていました。 住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、 大正期の小建築として貴重な 「晩香廬」 と 「青淵文庫」 が、 昔の面影をとどめる庭園の一部とともに、よく保存されています。

渋沢史料館
 渋沢栄一の1840 (天保11) 年から1931(昭和6) 年の91年におよぶ生涯と、携わったさまざまな事業、 多くの人々との交流等を示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。





◆青淵文庫



 渋沢栄一(号・青淵) の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。 渋沢の収集した 「論語」 関係の書籍 (関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。 上部の窓には洪沢家の家紋 「違い柏」と視意を表す「寿」 竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。 内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。






露台基礎/露台下より出土した「まぐさ」



露台基礎
 青淵文庫創建時の露台 (那智黒石が敷つめられたテラス部分)基礎の一部である。 コンクリートを打った上に煉瓦を積み、基礎としている。
 煉瓦の上には、 露台の縁石として御影石を敷き並べていた。
 桝と土管は雨水を排水するためのもので、 排水口には鋳物のふたを設けていた。 露台には緩やかな勾配がついており、 雨水は露台の端の要所に設けられた集水枡に流れ、 各枡をつなぐ土管を
流れ、 下水本管に排水されていたようである。
 2002 (平成14) 年の修理で、 露台の基礎は、補強のため鉄筋コンクリート造に改められた。



露台下より出土した「まぐさ」
 露台下部の堀削中に土の中より発見されたものである。 これは扉や窓の開口部上部に架ける 『まぐさ』 と呼ばれる部材で、 形状、寸法から「控室」 (台所北側) 出入口の 「まぐさ』であることが判明した。
 表面に張られたタイル裏面の刻印 『泰平 』 の文字の跡や鋼製建具を固定した金具 壁の漆喰塗が残っていることから、建物は、 タイルを張り、建具を取りつけ、 壁の仕上げを終えた完成間近の状態で1923(大正12)年9月に、 関東大震災によって壁が崩れるなどの大きな被害をうけたことがわかる。
 また、タイルは京都の 『泰平居』 という工房でつくられたこと、 青淵文庫の主要構造は煉瓦造であったが、 『まぐさ』 部分には鉄筋コンクリートが用いられていたこと、 などがわかる。





◆晩香廬



 近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一喜寿を祝い、 合資会社清水組(現・清水建設(株) 清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
 建物は応接部分と厨房、 化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、 構造材には栗の木が用いられている。 外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。 応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、 暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。 なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩 「菊花晩節香」から採ったといわれる。





渋沢栄一





◆兜稲荷神社跡



 日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社です。 1897(明治30) 年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。 その後、 1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、 基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。 この社は、 最初、 三井組の為換座(かわせざ)として新築された時、 三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、 兜社と名付けられたものでした。 その後兜社は、 為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。






◆井戸跡





◆茶席門跡



 茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐって.すぐに水の流れがありました。 流れに架かるか石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に 「茶席待合」、 さらにその奥に 「無心庵」がありました。 これらは、 1945 (昭和20) 年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。





◆茶席待合跡



 茶席「無心庵」 への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、 気持ちを落ちつけ、 茶席へ誘う重要な役割を担っていました。 現在は、 軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。





◆無心庵跡



無心庵跡
 設計は茶人としても有名な益田孝の弟、 克徳と柏木貨一郎と言われています。 京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32) 年に建てられました。 栄一は、 徳川慶喜の名誉回復を図るため、 慶喜伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
 無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、 伝統的なものの中に、 新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。 縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、 こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台
 無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。当時、ここからは、 栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、 荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。





◆おみやげ館





渋沢史料館のHPはコチラ
渋沢史料館|公益財団法人 渋沢栄一記念財団

場所はコチラ

休館日
基本的に月曜日がお休み。
他にも休みが多くあるようなので、行かれる方はHPなどで確認してから行って下さいネ!
史料館開館カレンダー|渋沢史料館|公益財団法人 渋沢栄一記念財団













飛鳥山散策

飛鳥山には他に二つの博物館がある。
多くの史跡があり、今回全部巡れなかった。
25日に散策した写真をメインにまとめた。
写真は、あすかやまパークレール乗り場。





◆アスカルゴ

あすかやまパークレールの車両。



『高齢者、障害者や子供連れなど誰もが飛鳥山公園を利用しやすくするために、北区が飛鳥山公園の北部に2億6千万円かけて設置した昇降設備で、2009年7月17日から運行を開始している。
他のスロープカーと同様に法律上はエレベーター扱い(斜行エレベーター)であり、鉄道・軌道路線ではない。
車両名はゆっくり上がる様子がエスカルゴ(カタツムリ)に似ている事から、飛鳥山公園と組み合わせて付けられた。 』
飛鳥山公園モノレール - Wikipedia







蒸気機関車D51853



わたしのあゆんだ道 (D51853)
製造年月日       昭和18年8月31日
製造工場        国鉄鷹取工場

配属箇所
昭和18年 9月 24日 吹田機関区
昭和21年 1月 1日 梅小路機関区
昭和21年 5月 8日 姫路機関区
昭和23年 9月 11日 長岡機関区
昭和42年 6月 24日 酒田機関区

廃車年月日 昭和47年6月14日
総走行距離 1,942,471.3km (月へ約2.5往復、 地球なら48.5周)

大きさ 
機関車 重さ 70.70t  空積 78.37t  長さ 1218cm  高さ 398cm   幅 260cm
炭水車 重さ 19.40t  空積 47.40t  長さ  755cm  高さ 308cm   幅 260cm

性能
気筒(シリンダー) 55Φx66cm   使用蒸気圧 15kg/cm²   火格子面積 3.27m²  全伝熱面積 221.5m²
最大馬力     1280馬力    動輪直径と配置 140cm 1D1 水タンク燃料 20m² 積載量 8 t





◆都電6080



 この都電6080は昭和53年4月まで飛鳥山公園脇の荒川線を走っていた車両です。
 荒川線の前身は「王子電氣軌道株式会社」といい通称「王電」の名で親しまれた私営の郊外電車でした。 明治44年8月大塚⇔ 飛鳥山上間 2.45kmの開業がはじまりで、 その後王子を中心に早稲田、三の輪、赤羽を結ぶ路線が完成し昭和17年当時の東京市に譲渡されたのです。 この車両は6000型と呼ばれており戦後はじめての新造車で昭和24年に製造されたものです。 青山 、 大久保、 駒込の各車庫を経
て昭和46年3月荒川車庫の配属となり現役を退くまで都民の足として活躍していました。
 北区では都電のワンマン化を機会に交通局から譲り受け子供たちの施設として設置したものです。





◆平和の女神像



 この像は、日本と中国の国交正常化を記念し、人類の理想である平和と幸福を願って、北区民有志を中心とした「日中・世界平和祈念「平和の女神像」建立の会」と、北区、北区議会連合会、区内企業、関係団体等が力をせ、一九七四年に、飛鳥山公園に建立したものです。
 作者は、長崎市平和祈念像」の作者として有名な故北村 西望氏です。
 当初は、大噴水のあった中央広場に建立いたしましたが、一九九八年三月、公園の大規模な改修に伴い、現在の場所に移設いたしました。
 なお、台座の裏に「女神像建立の辞」があります。

 作者 北村西望(きたむらせいぼう)
 一八八四年長崎県生まれ。一九一二年東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を首席で卒業後、北区西ヶ原のアトリエ(後に井の頭公園内へ移転)で数々の名作を製作。一九四七年日本芸術院会員。一九
五八年文化勲章受章。一九七四年日展名誉会長、一九八〇年東京都名誉都民、一九八一年北区名誉区民。一九八七年永眠。





◆古墳




飛鳥山1号墳
 古墳時代後期の直径31mの円墳。 平成元年の調査で周囲には幅3.8mの周溝が廻ることが確認された。 また、 平成5年の埋葬施設の調査で、 切石を使用した横穴式石室が確認されている。 石室は玄室の左側壁の最下段と床石の一部が原位置を留めている他は、大きく壊されていた。 石室の形態は残された側壁から 「胴張型(どうばりがた)横穴式石室」 と判断できた。 石室内からは大刀(たち)や刀子(とうす)の破片、鉄鏃(てつぞく)・耳環(じかん)・管玉(くだたま)・切小玉(きりこだま)・ガラス小玉が出土している。 公園内では他にも古墳の周溝が確認されており、古墳群が形成されていたようである。





飛鳥山 公共基準点



 公共基準点とば三角点と同様に、日本の国土の中における位置(緯度・経度)が数値により明確になっている点であり、 全ての測量の基準として利用されています。





◆妙見寺

こちらは公園の外。
すぐ隣にあったお寺だった。


境内社







◆都電王子駅









26日反省会は秋葉原「伝串」

今回お店外観の写真を撮らなかったので、2/27に撮ったものを・・・。