2022/06/13 日本橋室町散歩 06 柳橋/篠塚稲荷神社/ゆうらく/ラベル新聞社/佐久間公園/秋葉原駅

前の日記からの続き。
2022/06/13 日本橋室町散歩 05 両国旧御仮屋/石塚酒舗/日本山妙法寺日本橋道場/柳橋通り/中央区立産業会館/旧跡 両国広小路 - ovanの社会科見学





柳橋

下は神田川
一度来たことがある。
2018/04/16 馬喰町散歩 03 両国橋/大高源五句碑/ももんじや/三つの説明板/柳橋/初音森児童遊園 - ovanの社会科見学




奥で合流している川が隅田川




 柳橋神田川隅田川流入する河口部に位置する第一橋梁です。
 その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697年)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌元禄十一年(1698年)に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
 明治二十年(1887年)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923年)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ、ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(1929年)に完成しました。
 完成から70余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年(1991年)に整備し、平成十一年(1999年)に区民有形文化財に登録されています。



 柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。
 この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。

柳橋」と由来については、

(1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
(3) 橋の袂に柳の木があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。

 明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
 区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に傳えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感を持たせました。

柳橋の諸元
形 式 タイド・アーチ橋
橋 長 37.9m
遊行幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
建設年次 昭和4年12月(復興局施工)

春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規











◆篠塚稲荷神社



当社の創起年代は詳らかではないが古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり。
正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが明治初年神仏分離の際玉蔵院は廃せられた。
古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る。



毎年、氏子の役員や有志の方々が御奉仕誘導して江戸葛西囃子を先頭に、獅子頭, 大太鼓の山車と子供神輿が氏子町内を巡行します。
そして氏子の崇敬者が所々に設営した御旅所 (おたびしよ, 即ち御神輿がお立寄りして休む所)で子供さん達に飲物, 菓子, 玩具 文房具等を沢山に振舞います。
当神社の創建は非常に古くて確かな事は判りませんが、神社に伝わる古文書や伝記などに依れば、 正中年間 (1325年頃)に新田義貞の四天王の一人であった篠塚伊賀守重宏が、足利尊氏軍との四国での最後の戦いに敗れた後ひそかに東国へ逃れ、現在地近辺の茅原の里にあったと言う当稲荷の祠(ほこら)の傍らにて仏門に入り、 日夜主家の再興を祈願していた事から、いつしか里人が篠塚稲荷神社と称する様になったと言われています。 古来諸大名や高家及び庶民の崇敬厚く右の図は天保七年版 (1836年) 『江戸名所図会』に記載されている稲
荷社の絵図ですが 『篠塚稲荷神社。 当地の旧社なり。 昔、新田義貞)の家臣篠塚伊賀守、当社を信仰し、晩年に入道して社の側に庵室を結びて住す。 別当玉蔵院はその裔孫(えいそん)なりと言えり」と記してあります。
当時は神仏混交の時代で篠塚伊賀守の子孫は京都醍醐寺から篠塚山玉蔵院宗林寺の三号を受けた真言宗の修験僧で稲荷社の別当を務め、且つ江戸期から大正末期までは神社境内に寺子屋 (後に篠塚小学校)を運営し、また福井町にも分校を設けていましたが明治維新の際の廃仏棄釈により玉蔵院を廃止し、 大正11年には篠塚学校も廃校致しました。
篠塚伊賀守重宏については太平記徳川光圀公の大日本史などに詳しく記述されていますが、 大変な強力無双な武将で新田義貞公が福井で戦死した後は、義貞の弟、脇屋義助に従って各地を転戦し、四国で新田一門が滅亡する時、単騎で敵の船を奪い、現在の魚島を経て関東に向ったとあります。 魚島やその他には様々な史跡が残存していますがその没年は不確
かです。その豪傑振りは歌舞伎の演目にもなり左図の如き武者絵にもなりました。後年出生地の群馬県邑楽町 の大倉寺境内に御廟が建立され、毎年4月は一門の者が集まりご供養しています。












◆ゆうらく

とてもおいしそうな雰囲気のするお店だったので撮ってみた。
有名な喫茶店らしいね!

参考
古き良き純喫茶「ゆうらく」で優雅に1日を始めよう。浅草橋モーニングのススメ | 浅草橋を歩く











◆ラベル新聞社

『日本国内唯一のラベル関連専門紙』とのこと。
会社案内 | ラベル新聞 | labelshimbun.com











◆佐久間公園

以前来たことがある。
神社や歴史の説明版などたくさんあるのだが、今回はパスした。

2018/04/14 台東散歩 06 草分稲荷神社/佐久間公園/藤堂和泉守の上屋敷を彩った樹々/秋葉原駅/聖橋 - ovanの社会科見学











秋葉原駅











ちょっと時間が無くなってきたので少し内容を減らしました。
肝心の散歩ができなくなってきた(w
今回の散歩ルートはやっぱり何度か足を運んでいるエリアだが、
以前巡りきれていないところがほとんど。
新しいところに行かねば!