2022/06/18 日本橋散歩 02 八丁堀駅/中央区立桜川公園/港湯/入船湯/軍艦操練所跡/波除稲荷神社/海幸橋碑


前の日記からの続き。
2022/06/18 日本橋散歩 01 小伝馬町/鞍掛橋跡(浜町川)/新道問屋街/久松稲荷大明神/久松児童公園/富澤稲荷神社/小伝馬町駅 - ovanの社会科見学






八丁堀駅

東京メトロ日比谷線八丁堀駅














中央区立桜川公園













◆港湯

銭湯♪













◆入船湯

銭湯♪













◆軍艦操練所跡



 ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(1857)四月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。
 万延元年(1860)正月に講武所神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(1864)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。
 設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。
 慶応元年(1865)七月、新たに海軍奉行を置き、慶応二年七月には海軍所と改称されました。同年十一月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。












◆波除稲荷神社

以前お参りしたことがある。
2016/06/23 朝日新聞社内見学 - ovanの社会科見学

※拝殿のみ2016/06/23 の時の写真



 波除稲荷神社の創建は万治年間(1658~1661)と伝えられています。築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したと言われています。 「波除」という尊称はこの故事に由来するも.ので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。
 波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町をねり歩きました。 獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(1848) 製作の獅子頭一対(中央区
文化財)は社宝として本殿に安置されています。 なお、現在でも毎年六月の「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井大獅子」や「弁才天お歯黒獅子」が巡行さ
れることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。
 また、本殿前にある天水鉢二基 (中央区文化財)は、尾張藩船からの積荷の陸揚げに従事した小揚たちが天保九年(1838)に奉納したものです。江戸時代、現在の築地市場の南半分には尾張徳川家蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが運び込まれていました。船の無事を祈って奉納したこの天水鉢は、波除稲荷神社への信仰を伝える貴重な文化財です。


波除神社七福殿

毎月七日の七福神参りの際に御神像を安置する社殿です。
その月の七福神の御神像が七日に安置されます。
またなの海外では祭典の際に祓所としてお詣りされます。


天照大神/大国主命/少彦名命/天日鷲命

左隣に玉子塚がある。


吉野家の碑

 ここ築地の地に、牛丼の吉野家の創業店がありました。吉野家の歴史は、かつて栄えていた日本橋の魚河岸で、明治三二年に開業したのが始まりです。屋号は、創業者・松田栄吉の出身地である大阪・吉野町より名づけられたと伝えられています。
 その後、関東大震災の影響により、大正一五年、魚河岸とともにこの地に移転いたしました。東京大空襲によって店舗は焼失しましたが、終戦後、すぐに屋台の営業を再開。そして昭和三四年、「築地一号店」を開店したのです。
 当初、具材には季節の旬な食材と豆腐なども、盛り込まれていましたが、市場で働く人々が牛丼を注文するのは、牛肉が食べたいからなのです。
 二代目社長、松田瑞穂は、そんな想いに応えてメニューを改良。より多くの牛肉と、味わいを深めるための玉ねぎだけを使ったシンプルな牛丼を生み出しました。この牛丼は市場で大いに愛され、またたく間に各地へとひろがり日本人のお腹を満たす国民食となっていったのです。
 平成二八年、再び市場の移転にともない、「築地一号店」も移転することになりました。この地で永きにわたり多くの方々に、ご愛顧いただいてまいりました
「はやい、うまい、やすい」
吉野家の牛丼は、まさにこの土地で育まれた味なのです。


まだ市場があった時に1号店で食べたことがある。
ovanrei.hatenablog.com


雌の大獅子『弁財天・お歯黒獅子』



 江戸時代に東都名物と伝えられた雄の大獅子(天井大獅子)が平成二年に再興され更に九年に木の収縮を待ち八十五年ぶりに担いでの大獅子巡行が復活し 雌の大獅子も平成十四年の本祭りに 此れもまた名物で在りました 『お歯黒獅子』として高さ1.8m 幅2.5m 重さ約700kgの朱塗りに歯に鉄(かね) をさした艶やかな姿を表しました
 此のお歯黒獅子の雌を表す宝珠の角の内に 江戸期の神社御創建と時同じくして境内社にお奉りされておりました 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) いわゆる弁財天の御神像をこの慶事に古に習い紫水晶を御霊として抱く姿の木彫座像で新調されてお納められました また担ぎます時の見返り幕も弁財天の艶やかな立ち姿を友禅染に刺繍を施し新調されました
学芸の才能と 福徳の神 『弁財天』として再興された
『お歯黒獅子』どうぞ末永くお詣り下さい













◆海幸橋碑



海幸橋(かいこうばし)碑
 海幸橋は、昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口部に創架された鋼下路アーチ橋です。 大正12年関東大震災日本橋にあった魚市場が全焼してのち、築地に移転しましたが、これに先立って築地市場の入口に新しく
架橋された橋でした。
 橋梁設計は東京市道路局で、築地川東支川は平成7年に埋め立てられ、橋本体は同14年に撤去されました。 しかし、 鋼鉄製の親柱2基と石造親柱2基はそのまま記念物として現地に保存されることになりました。
 鋼鉄製親柱2基は破損した部材をもと通りに修復し、塗装も創架当時の濃緑色に戻してあります。この鋼鉄製の親柱のデザインと4基の配置は、日本ではめずらしいオランダのアムステルダム派のデザインの特徴をもっており、
点対称に2基ずつ配置されているめずらしい構造です。この橋の親柱は昭和初期の橋梁デザインを伝える貴重な近代土木遺産として区民有形文化財に登録されています。












続く。