2022/06/23 定例見学会 01 愛宕神社

前の日記からの続き。
2022/06/23 虎ノ門散歩 虎ノ門駅/虎ノ門駅前/霞ヶ関/虎ノ門見附/国立教育会館跡/工部大学校跡/虎ノ門事件跡/神谷町駅 - ovanの社会科見学





愛宕神社

ほおずき市をやっていたのでみんなでお参り。
写真はほとんど18日に下見に行ったときのもの。


愛宕山

 愛宕山は洪積層の丘陵地で、標高は二六メートルである。山頂に愛宕神社がまつられ、江戸時代から信仰と見晴らしの名所としてにぎわった所である。
 愛宕神社の祭神は火の神 (火産霊命)が中心で、江戸時代には幕府の保護もあり、多くの人々から火伏せの神として信仰されてきた。
 今日のように周囲に高層ビルが立つまでは、山頂からの眺望がすばらしく、東京湾や房総半島までも望むことができた。
 また、愛宕山には、男坂・女坂・新坂などの坂道があり、男坂は神社正面の八六段の急勾配の石段で、寛永年間(1624~1644)に曲垣平九郎がこの石段を馬で上下したと伝えられる。


由緒/桜田烈士愛宕山石碑

愛宕神社御由緒
 当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
 江戸大火災、関東大震災東京大空襲の度に焼失しましたが現存のご社殿は昭和三十三年再建されました。 寛水十一年三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(八十六段)を駆け上り、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。 万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。
(ご社殿内に額縁寄贈)
 海抜二十六メートルは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。 明治元年には勝海舟西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。 鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。
 ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され現在は六月の千日詣り、羽子板絵馬にその名残りをとどめています。

伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり


桜田烈士愛宕山石碑
『烈士(れっし)とは、節義の堅い、名誉のために殉じる人物のこと(『史記』李斯列伝、伯夷列伝)。また、革命や維新などにおいて戦い功績を残し、犠牲となった人物またはその人物の称号をいう。
幕末の日本においては、志士(義士)のうち、特に生命を危険にさらしたり、犠牲を払った人物を指す。志士そのものをいう場合も多い。桜田門外の変に加わった水戸藩薩摩藩の浪士を桜田烈士と呼称する例がある。また、尊皇攘夷明治維新に貢献した志士全体を指して幕末烈士という概念が用いられることもある。 』
烈士 - Wikipedia

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。「桜田事変」とも言う。 』
愛宕神社(東京都港区愛宕)境内には、「桜田烈士愛宕山遺跡碑」がある。』
桜田門外の変 - Wikipedia


辨財天







太郎坊神社/福寿稲荷社/恵比寿大黒社



三角点

『三角点(さんかくてん)とは、三角測量に用いる際に経度・緯度・標高の基準になる点のことである。標高については別途、水準点も基準となる。 』
三角点 - Wikipedia



お地蔵様


丹塗りの門


将軍梅

参考
愛宕神社トリビア | 愛宕神社



ここから23日に撮った写真


招き石

この石を撫でて 福を身に着けてください


ほおづき


出世の石段



鳥居





続く。
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