2022/07/17 半蔵門散歩 05 砂防会館/杉孫七郎邸跡/三べ坂/華族女学校の遺蹟碑/山王坂/噴水

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/07/17/213000






砂防会館

砂防会館(さぼうかいかん)は、一般社団法人全国治水砂防協会が本部を置き、管理運営する会館である。全国治水砂防協会の関連施設の他、テナントビルとしても用いられている。2015年2月、本館が老朽化により改築されることになり、下記各施設を別館に移転し2016年3月に閉鎖され、2018年4月に完成した。』
砂防会館 - Wikipedia

『一般社団法人全国治水砂防協会(ぜんこくちすいさぼうきょうかい)は、本部は砂防会館で、会員は市町村から構成されており、現在約1,500会員である。元国土交通省河川局所管。』
全国治水砂防協会 - Wikipedia










◆杉孫七郎邸跡

現地では説明版などは見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真のところあたり。



古地図をみても見てもわからないね・・・・。
紀伊和歌山藩(和歌山)紀伊中将慶福(徳川)となっていた。










◆三べ坂

坂上



坂途中。



坂途中。
左側に見える建物は三議員会館衆議院会館。



坂下。










華族女学校の遺蹟碑



碑文は判読できなかった。

『1885年(明治18年)、皇族・華族子女のための官立の教育機関として華族女学校の名で四谷に創立された、120余年の歴史を有する伝統ある女子校である。その後1889年(明治22年)、永田町に移転。平民子女の入学も許可され、1906年明治39年)に学習院女学部、1918年(大正7年)に女子学習院となる。1947年(昭和22年)に私立学校として再発足し、現在に至る。
校門は赤茶色の鉄製で、学習院が1877年(明治10年)神田で開学された時に建てられた旧正門を1949年(昭和24年)に移設したものである。これは日本で最古の鋳鉄製の門で、国の重要文化財に指定されている。構内の中心には蔵書約10万冊の図書館があり、その周囲の緑の中に女子中・高等科の建物が点在する。女子大学との敷地を合わせると約2万坪となる。
教育施設としては、HRと特別教室を含む一般教室がA館からF館まで6棟、総合体育館(2018年より使用開始)、第2体育館、室内温水プール、総合グラウンド、テニスコート4面、バレーコート4面、バスケットコート1面がある。 
女子中・高等科は共同で部活動や委員会活動を行うことが多く、運動会や文化祭なども中・高合同で行われる。またクラス編成も中・高共通で、1学年5クラス(東、西、中、南、北)である。高等科からの生徒募集は現在停止されている。
学習院高等科に比べて内部進学者が多く約7割が学習院大学へ進学するが、学習院女子大学へ進学する者は数名程度である。 』
学習院女子中・高等科 - Wikipedia

参考
「授業参観」で嫁探し⁉︎学習院女子部のルーツ、明治時代の「華族女学校」がぶっ飛んでるって知ってた? | 和樂web 日本文化の入り口マガジン



門の奥は参議院議長公邸。










◆山王坂

坂下。



坂上



江戸時代、山王社(日枝神社)の西側には、外堀の一部である溜池があり、赤坂側から入ることができませんでした。
そのため、この坂道は山王社の表参道として利用されたことから名付けられました。
坂上には第一鳥居が、坂下には第二鳥居があり、坂の北側には門前町屋が並んでいました。
将軍やその名代を務めた大名たちも、この坂道を通って、山王社に参詣していました。










◆噴水

日枝神社前にあった噴水。

奥にプルデンシャルタワーが見える。
『この地にはかつて、日本料亭「幸楽」が存在していたが、戦災で焼失。跡地に藤山コンツェルンを設立母体として、1960年(昭和35年)、ホテルニュージャパンが開業した。だが、コンツェルン2代目の藤山愛一郎の政界進出や、新規事業等の不振から藤山コンツェルンは衰退を余儀なくされた。このため、横井英樹率いる東洋郵船がホテルニュージャパンを買収した。
社長に就任した横井は施設の陳腐化や経営ノウハウの乏しさから経営難となっていたニュージャパンを立て直そうと、人員の整理や経費削減といった徹底した合理化策を打ち出す。このため安全対策予算もなおざりとなり、結果として、1982年(昭和57年)2月8日に33人の死者を出した火災が発生、ニュージャパンは営業禁止処分を受けて廃業した。なお、横井は業務上過失致死傷罪に問われ、最高裁禁錮3年の実刑判決が確定し、収監された。
テナントのニューラテンクォーターは1989年(平成元年)まで営業が継続されたものの、跡地の買い手がなかなかつかず、ニュージャパンとそのオーナーである横井の債権者として差し押さえた千代田生命保険の関連会社が1995年(平成7年)に自己競落し、翌年6月にタワー建設に着手した。
しかし、2000年(平成12年)秋に千代田生命が経営破綻。同社はAIGがスポンサーとなりAIGスター生命保険[注 1]となったが、当時建設中だったタワーについてはプルデンシャル生命保険と森ビルの共同出資した会社が買い取り、完成させた。 』
プルデンシャルタワー - Wikipedia










続く。
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