2022/07/17 半蔵門散歩 06 日枝神社

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/07/17/220000





日枝神社



国会議事堂周辺と赤坂地区を結ぶ永田町二丁目山王地区の道路拡幅整備は長年の懸案でありました
また 昭和四十年代 (一九六五〜) 米国から返還間近の山王ホテルの跡地の高度利用も計画されました
構想二十余年 平成五年(一九九三)四月「東京都市計画」が決定され民間の活力を用いて実施し再開発地域内の私有地の無償上地による全公道の拡幅・緑化・環境の整備・地下鉄新駅のコンコース・地域
冷暖房施設・山王パークタワービル・新参道山王橋などの工事が行われました
事業は隣接の新首相官邸との総合調整を経て平成七年(一九九五)二月に着工 五年の歳月を費やし平成十二年(二〇〇〇)一月に完成されました



 御祭神大山咋神は須佐之男神の御孫神で山木之大主神とも称えられ山水を司り、萬物の生成発展を守護する神である。
 日枝神社の歴史は鎌倉初期、秩父重継が江戸貫主を名乗り居館に山王社を勧請したことに始まる。文明年間には太田道灌江戸城築城にあたり川越山王社を勧請し、更に徳川家康入府以降、城内鎮守の神、将軍家の産土神と崇められ、紅葉山から麹町を経て萬治二年当地に移遷された。
 日本三大祭のひとつ、また江戸三大祭の筆頭として知られる山王祭は江戸時代にはその神幸行列が城内に入り、将軍自ら上覧したことから天下祭また御用祭とも称された。
 明治維新東京奠都によって江戸城は皇居となり、日枝神社は皇城鎮護の神として、皇室の御崇敬殊に篤く 大正天皇御即位当日に列せられた。氏子区域は都心の七十余町に及び、生業の隆昌をはじめ子孫と家門の繁栄を守護し給うその御神徳はまさに宏大無辺である。



 先の大戦によって灰燼に帰した日枝神社の御社殿は、昭和三十三年氏子崇敬者の赤誠により再建され、星ヶ岡に再び大社の威容を拝するに至り、同年六月の佳日を占して浄闇の内に本殿遷座祭が斎行された。
 その遷座祭奉仕の感激を心に刻み、後の世まで伝えようと氏子有志の青年小集八、日枝神社奉賛青年会が結成された。
 爾来六十年 日枝大神の広大なる御神徳を仰ぎつつ、隔年の神幸祭奉仕を始め境内整備また緑化推進等、四季を通じて種々の祭儀や行事に奉賛奉仕を続けてきた。
 この秋に当り、我々は民族の美風である和の心を以て互に睦み親しみ、敬神崇祖の誠を尽し、全国各地の氏子青年の規範として地域社会の発展に寄与すると共に子孫の繁栄と国家の隆昌、世界平和の為、今後とも更に精進を続けてゆくことを茲に誓う。










◆南神門









◆藤棚

まだ藤の花が咲いていてビックリした。









◆車祓所









◆山王稲荷神社/八坂神社/猿田彦神社



山王稻荷神社本殿
 稲荷神社は、山王社が万治2年(1659) 麹町隼町から現在地に移される以前から、この場所に鎮座していたと考えられます。 明暦3年(1657)の大火で焼失しましたが、万治2年(1659) の山王社の造営に合わせてこの稲荷神社も造営されたと考えられます。その後、江戸時代の火事や地震関東大震災、戦時下の空襲などで境内の建造物は被害を受けて建替えられていますが、この稲荷神社本殿はそれらを免れて残った千代田区内で唯一の江戸時代初期の木造建築です。建築様式は、 関東地方では珍しい縋破風(すがるはふ)形式の春日造です。

狛犬
 この狛犬は文政3年(1820) 神田神社境内に鎮座していた南伝馬町天王社に奉納されたものでした。しかし、 明治18年(1885) 2月13日未明に神田神社周辺で起きた火災により天王社本殿などが焼失したため、 南伝馬町 (現在の中央区京橋一~三丁目)の氏子たちは新たに日枝神社境内に鎮守として祇園社を造営しました。狛犬明治34年(1901)に日枝神社境内に移転、再設置されたと考えられます。









◆神門









◆宝物殿









◆星ヶ岡城跡

google mapにはちょうどこの写真のところあたりに「星ヶ岡城跡」とあった。
現地では説明版などは見当たらなかった。

参考
星ヶ岡城跡とされる高台 (山王日枝神社): つわものどもが夢の跡

都心の謎の城跡「星ヶ丘城」









◆さざれ石

元は「小さな石」の意味で、国歌「君が代」 の歌詞に詠まれその名を知られる。
学名を「石灰質角礫岩」といい、岐阜県揖斐郡春日村の山中から発掘される。
石灰石が長い年月をかけて雨水に溶解され、それにより生じた粘着力の強い乳状液が小石を結集して大きくなり、一つの大きな岩の塊(巖)に変化したものである。
昭和五十六年六月十七日 小林文治殿奉納

国歌「君が代
君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで









◆女坂

坂上



坂下。



山王女坂は、正面の石段(男坂)に対しその名が付けられています。また、別の名は御成坂とも呼ばれています。 『新撰東京名所図会」には、「左緩やかに通ずる石階を女坂と呼ぶは非なり。
昔時(せきじ)将軍家御成の節、峻坂を避け、此坂のみ御通行遊ばされしにより、御成坂と申侍(もうはべ)るを女坂と聞誤りしにはあらぬかと」と書かれています。









男坂

坂上



坂下。



山王男坂日枝神社の表参道で、左側のゆるやかな坂”女坂”に対しその名が付けられています。
二つの坂を比較して急な坂を男坂、緩やかな坂を女坂と呼ぶことは各地にみられます。
石段は五十三段。山王台地は又の名称を星が岡ともいう景勝の地でした。









◆稲荷参道












◆参道・鳥居











続く。
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