2022/08/05 赤坂散歩 01 赤坂見附駅/新坂/駐日メキシコ大使館/松江藩松平家上屋敷跡/東京女学館発祥の地/赤坂見附歩道橋/赤坂門跡


24時間勤務アケで、赤坂見附駅から麹町駅四ツ谷駅、新宿歴史博物館経由で四谷三丁目駅まで散歩。





赤坂見附駅

東京メトロ丸の内線赤坂見附駅













◆新坂

坂下。



坂途中。



坂上



江戸時代には江戸城の外堀があったため、この道はありませんでした。一八八四年(明治十七年)に参謀本部が作成した地図では、溜池の方へ下る現在の形に近い道が確認できます。 外堀と溜池の埋め立てで、新しく出来た坂道ということから名付けられました。すでに明治三十年頃には新坂と呼ばれていました。


以前来た時と標識の説明が変わっていた。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/20180111/1515902819











◆駐日メキシコ大使館

こちらも以前訪れている。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/20180111/1515902819

メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、スペイン語: Estados Unidos Mexicanos)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ
メキシコの人口は、2020年時点で1億2,893万人であり、スペイン語圏においてはもっとも人口の多い国である。国内総生産GDP)は、中南米地域においてはブラジルに次いで第2位に位置する。 』
メキシコ - Wikipedia












松江藩松平家上屋敷

現地には説明版など見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真の塀の奥あたり。



古地図で見ると合っているようだ。

松江藩(まつえはん)は、出雲1国または隠岐国を加えた2国を領有した藩。藩庁は松江城島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾家、京極家と続き、親藩の越前系松平家廃藩置県まで支配した。』
松江藩 - Wikipedia











東京女学館発祥の地

東京女学館は, 明治二十年この地 (旧松平出羽守邸, 俗に雲州屋敷, のち閑院宮邸) を皇室より貸与され, 翌二十一年開校した。 その后, 麹町三年町 (旧工部大学校) に移り, 「虎ノ門女学館」と称せられた。 大正十二年 関東大震災のため焼失したので 渋谷御料地に移り, 女子の一貫教育の場として 今日に至っている。 こゝに, 往古を偲び, 将来の弥栄を祈り, 創立百周年を記念して 碑を掲げる。

東京女学館1888年、「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」[1]を図る学校として、女子教育奨励会を母体に開校した。以後、同校は高等女学校に準ずる初・中等教育機関として組織を拡大していった。
「女子教育奨励会創立委員会」は、1886年明治19年)、当時あまり顧みられていなかった女子中等教育の必要性を痛感した内閣総理大臣伊藤博文が創立委員長となり、当時の政・財・官界の有力者が創立委員となり構成された。渋沢栄一(実業家)、岩崎彌之助(実業家)、外山正一(東京帝国大学総長)、ジェームズ・ディクソン(東京帝国大学英語教授)、アレキサンダー・ショー(聖公会司教)らをはじめとする多方面の人材が集まっている。
渋谷羽沢(現在の広尾)に移転したのは関東大震災後の1923年(大正12年)のことである。
「高い品性を備え、人と社会に貢献する女性の育成」[2]を教育目標に掲げて、中高一貫教育を実施している。 』
東京女学館中学校・高等学校 - Wikipedia












赤坂見附歩道橋

下は青山通り
歩道橋上の道路は「首都高速4号新宿線





google mapには「富士見坂」とある。
青山通りのこの辺りの坂をさすのだろう。
標識や説明版などは見当たらなかった。

参考
スポット(富士見坂)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda











◆赤坂門跡



 赤坂門は1636年(寛永13年)に、 筑前福岡藩(現在の福岡県)の藩主である黒田忠之(くろだただゆき)により築造されました。 門の名称は、外側の赤坂を監視することから名づけられました。 この門は脇往還(わきおうかん)のひとつ矢倉沢往還(大山街道) の出発点となっており、 大山阿夫利神社 (神奈川県伊勢原市)や大雄山最乗寺(さいじょうじ) (神奈川県南足柄市)を参詣する江戸の人々で賑わいました。 櫓などの建築部分は1871年(明治4年) に撤去され、 石垣も明治30年代に撤去されました。
 赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、1956年(昭和31年) 3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡に、文化財指定されています。


史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門

 正面にある石垣は、 江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は 「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。 江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された 「枡形門」 の形式をとっています。 赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、 現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。
 赤坂御門は、寛永13年 (1636) に筑前福岡藩黒田忠之により、 この枡形石垣が造られ、同16年 (1639) には御門普請奉行の加藤正直 ・ 小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、 現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
 明治時代以降、 門が撤廃され、 その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、 平成3年の地下鉄南北線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。
 現在、 右手の石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。











続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/08/05/210000