2022/08/05 赤坂散歩 05 駐日ベルギー国大使館/国際協力機構本部/二番町/駐日イスラエル大使館/四谷門跡/四ツ谷駅

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/08/05/220000







◆駐日ベルギー国大使館ブリュッセル地域政府

『ベルギー王国(ベルギーおうこく、蘭: Koninkrijk België、仏: Royaume de Belgique、独: Königreich Belgien)、通称 ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。
首都ブリュッセルブリュッセル首都圏地域)は欧州連合EU)の主要機関の多くが置かれているため「EUの首都」とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は、19の基礎自治体からなるブリュッセル首都圏の自治体のひとつ、ブリュッセル市である。 』
ベルギー - Wikipedia













国際協力機構(JICA・ジャイカ)本部

独立行政法人国際協力機構(どくりつぎょうせいほうじんこくさいきょうりょくきこう、英: Japan International Cooperation Agency、略称: JICA)とは、独立行政法人国際協力機構法に基づいて設置された独立行政法人。理事長は田中明彦
外務省が所管する。政府開発援助(ODA)の実施機関の一つであり、開発途上地域等の経済及び社会の発展に寄与し、国際協力の促進に資することを目的としている。前身は1974年(昭和49年)8月に設立された特殊法人国際協力事業団であり、2003年(平成15年)10月1日に現名称へ変更された。前身についても一括して述べる。 』
国際協力機構 - Wikipedia


google mapの口コミを見ると、コスパのよさそうな食堂があるとのこと。
食べに行ってみたい♪
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◆二番町

 江戸城に入った徳川家康は、城の守りを固めるために、城の西側に隣接するこの一帯に「大番組」と呼ばれる警備役の旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいましたが、明治時代になると伯爵や子爵、官吏の邸宅が並ぶ高級住宅地となりました。
 現在の二番町周辺は、明治五年(一八七二)から昭和十三年(一九三八)まで「下二番町」と呼ばれていました。いまは、幅こそ広くなったものの通りの位置や方向は大きく変わらず、落ち着いた町並みからも往時が偲ばれます。
 明治・大正期の外交官であり、のちに首相となって政党政治を確立させた加藤高明の邸宅は、現在のベルギー大使館の地にありました。
 『花物語』『徳川の夫人たち」などの大衆小説で有名な吉屋信子や、プロレタリア文学武田麟太郎も、この町に住んでいました。
 ここ二番町では日本テレビの存在も忘れることはできません。 昭和二十七年(一九五二)にこの場所に開局した日本テレビは、当時、海抜一八四メートルのテレビ塔をもち、その展望台からは皇居や国会議事堂を望むことができました。
 明治・大正・昭和と多くの文化人を輩出してきた二番町は、これからも文化の発信基地の役割を担っていくことでしょう。












◆駐日イスラエル大使館

撮影禁止っぽかったので遠くから。



通りからだいぶ奥まったところにあるんだね。
入り口には日本の警官が立っていた。

イスラエル国イスラエルこく、ヘブライ語: מְדִינַת יִשְׂרָאֵל、アラビア語: دَوْلَة إِسْرَائِيل、英語: State of Israel :[ˈɪzrɪəl, ˈɪzreɪəl])、通称イスラエルヘブライ語: יִשְׂרָאֵל)は、西アジアに位置する共和制国家。北はレバノン、北東はシリア、東はヨルダン、東と西はパレスチナ自治区ヨルダン川西岸とガザ地区[10]、南西はエジプトと国境を接している。
実質的な首都はテルアビブであり、経済と技術の中心地をなす[11]。一方、イスラエル政府としてはエルサレムを首都と宣言しているが、エルサレムに対する国家の主権は国際的には限定的にしか認められていない]。 』
イスラエル - Wikipedia











◆四谷門跡

 四谷門、 通称四谷見附は 「江戸城三十六見附」 の1つで、 現在の麹町方面と四谷方面 (新宿区)を結び 半蔵門を起点とする甲州街道のロでした。
 見附の形と石垣の建設は長門萩藩(現在の山口県) 藩主毛利秀就(もうりひでなり)に命じられ、 1636年(寛永13年)に建造されました。 門は1639年(寛永16年)に、旗本の室賀正俊(むろがまさとし)と大岡正清(おおおかまさきよ)によって構築されました。 桝形と石垣の建設時は外麹町口と呼ばれていましたが、 他に四谷口や山ノ手口とも呼ばれており、 1673~81年(延宝年間) 頃には四谷門と呼ばれるようになりました。
 明治維新後、 1872年(明治5年) に門が撤去され、 桝形と石垣のみが残りましたが、 1899年 (明治32年)に桝形と石垣のほとんどが撤去されました。現在は見附北側の石垣が現存しており、南側の石垣はJR四ツ谷駅舎の下部に保存され、 一部が露出した状態で保存されています。












四ツ谷駅

JR四ツ谷駅


駅の周りにはたくさん説明板があった。

江戸城外堀史跡展示広場は以前訪れたことがある。
建物の中、改札近くにある。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/07/17/233000



現存する四谷門の桝形(ますがた)石垣

 江戸城には、 内郭10、 外郭26の城門があったとも言われ、 赤坂見附など現在も地名に残る 「見附」には番人が置かれていました。 外郭の四谷門は、 四谷口・外麹町口とも呼ばれ、 甲州街道沿いで町人や物資が行き交う門として交通の要所でもありました。
 四谷門桝形石垣は、 1636(寛永13) 年の御手伝普請で萩藩(現在の山口県) 主の毛利秀就によって作られました。 四谷門の構造は、冠木門 (高麗門) と渡櫓門からなる枡形門で、冠木門左手の石垣上には稲荷が祀られ、樹木も植えられていました。 門の警備は3年交代で旗本が担当していました。
 四谷門枡形石垣は、 明治期に市電の敷設に伴い撤去され、 冠木門北面の一部を残すだけです。しかし、1988 (昭和63)年JR四ツ谷駅改修工事等に伴う発掘で、 渡櫓門石垣下段の内5段が発見されました。 石には毛利家を示す「雁金紋」の刻印が確認されます。 発掘された石垣の隅石部は、JR四ツ谷駅麹町口駅舎南側に保存されており、 四谷見附橋の橋詰から覗くとその姿を見ることができます。


四谷門枡形石垣に用いられた石材

 江戸城外堀は、堀や土塁を佐竹家や上杉家など東国大名が、石垣を毛利家、森家、 蜂須賀家など西国大名が御手伝普請で分担し築かれました。
 この石材は、 JR四ツ谷駅改修工事等で発掘された、 四谷門石垣の角の部分を構成していた石です。江戸城の石垣石は小田原から真鶴半島を経て、 伊豆半島東海岸と西海岸の沼津周辺の石丁 (切) 場で産出された安山岩で、石船で江戸城へ運ばれてきました。
 細川家では1636(寛永13) 年の外堀普請で計13,452石が運び出されたと言われています。

四谷見附と周辺の地域
 半蔵門から四谷口に至る甲州街道沿いには、 麹町13町が連なっていましたが、外堀が築かれる際に麹町十一丁目から十三丁目は四谷門外 (現新宿区側)に移転しました。
 甲州街道は、四谷門を出て西へ麹町十一丁目に入り、十二丁目の角を南に下りますが、 この 「大横丁」は江戸の西側で最も繁華な地域であったといわれています。 1873(明治6)年に、四谷門外土橋を通る玉川上水の掛樋修繕を行う時も、この土橋は東京の東西の大道で、 馬車・人力車の通行のみならず、 麹町・四谷近辺の住民の苦情もあって通行留めにすることはできず、仮橋を架橋することになったほど、 交通量の多い道でした。
 1894 (明治27)年に四ツ谷駅が設けられると、道路を行き交う市電とともに地域の重要な交通結節点として発展を続けることとなります。










続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/08/05/230000