2022/08/22 不忍池・銀座散歩 02 清水坂/上田邸(旧忍旅館)/水月ホテル鴎外荘/江戸千家 一円庵/池之端児童遊園/不忍池/横山大観記念館

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/08/22/203000






清水坂

坂上



坂途中。



坂途中。



坂下。



 坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。 坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。










◆上田邸(旧忍旅館)



 上田邸は、 以前、忍旅館として営業しており 「花園町 (現在池之端) の白さぎ城」と親しまれていた。 建築当時こうした洋館は珍しく、見学者が絶えなかったといわれている。
 この建物は、木造建築であり、モルタルに目地を切って石壁風に見せた外壁や窓上部などに共通のデザインはあるが、窓の付け方やイオニア式をはじめとする柱に各層独自のデザインをとり入れた外観となっている。 1階から3階の各層は階段状にセットバックしているので、3階建の上に塔屋が乗っていても圧迫感がないことも特徴のひとつである。







水月ホテル鴎外荘

一度来たことがある。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2019/02/08/220000_1



 森鴎外文久二年(1862)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
 明治二十二年(1889)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町11番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
 同明治二十二年(1889)八月に『国民之友』夏季附録として、『於母影』を発表。十月二十五日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、翌明治二十三年(1890)には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。
 しかし、家庭的には恵まれず、長男於莵が生まれた明治二十三年(1890)九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町57番地に転居していった。



森鴎外(1862~1922)
島根県津和野出身。旧幕時代の範医の長男に生まれる。東京大学医学部卒。陸軍省の軍医となり、日清戦争日露戦争に従軍。
翻訳、捜索、批評に活躍、明治文化人の重鎮。
代表作に「於母影」(翻訳詩集)。「舞姫」・「雁」・「渋江抽斎」・「高瀬舟」・「うたかたの記」。

森鴎外居住の跡
森鴎外は、明治二十三年(1890)この地において文壇処女作の「舞姫」を発表しました。そして次々と文学作品を発表し、近代文学史上画期的な活躍をする基礎を築いた地でもあります。



廃業していた。
たしか廃業後に一度再開したはずなんだが・・・・。
と思って調べてみたら、再び廃業したようだね。
台東の旅館 「鷗外荘」あす再び閉館 「舞姫」執筆 旧邸は移築を検討 5月に営業再開も…コロナ禍で客足戻らず:東京新聞 TOKYO Web











江戸千家 一円庵【東京都指定有形文化財

私有地のようなので外から撮らせていただいた。
関宿藩久世家江戸下屋敷内にあった茶室を移築したものとのことだ。
https://www.visiting-japan.com/ja/articles/tokyo/j13tt-ichienan.htm










池之端児童遊園

以前来たことがある。
2019/02/08 上野散歩 02 護国院/清水坂/花姫稲荷神社/森鴎外旧居跡/旧都電停留場/七倉児童遊園/七倉稲荷神社 - ovanの社会科見学



<旧都電停留場>
ここ、池之端児童遊園は、かつて都電停留場(池之端七軒町)のあった場所です。
昭和30年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸橋~須田町)、37系統(三田~千駄木2丁目)、40系統(神明町車庫前~銀座七町目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和42年(1967)12月に37、40系統が廃止、昭和46年(1971)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端2丁目に改称)の停留場は姿を消しました。
平成20年(2008)3月、都電停留場だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。



<都電7500形(7506号車)>
ここに展示された都電は7500形といわれる形式で、昭和37年(1962)に製造された旧7500形を車体更新したものです。旧7500形は昭和59年(1984)以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され現在の7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。この車両は、平成20年(2008)1月末まで都電荒川線三ノ輪橋から早稲田)を走行し、平成20年(2008)2月1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。










不忍池




鑑真像

つい最近建ったとのこと。
だが、調べてもなんでこの地に建ったのかがわからなかった。

参考
中国美術館呉為山館長作「鑑真銅像」 上野公園で除幕式(CGTN Japanese) - Yahoo!ニュース


鳥たちの時間

2010 池田 政治



 此処不忍池は、古くから名勝の地として知られ、その起源は縄文の時代まで遡ります。対岸の弁天堂や上野の山の木々の後方には、東京スカイツリーも望むことができます。また、当地を目指して、多くの鳥たちも飛来してきます。
 四季を通じて美しいこの環境が、末永く守られ続けていくことを願っています。










横山大観記念館


横山大観旧宅及び庭園(史跡及び名勝)

 日本画家である横山大観が、明治四十一年(1908)から昭和三十三年に没するまで、自宅兼画室として使用していた場所である。
 横山大観は、明治元年茨城県に生まれた。同二十二年、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学して岡倉天心・橋本雅邦に師事した。卒業後は天心・雅邦・下村観山・菱田春草らと日本美術院を設立し、同院が茨城県五浦に移転の際には、大観も居を移した。明治四十一年に五浦の居宅が全焼したことを機に、再び上京し、この地に自宅を構えた。
 旧宅は、昭和二十年の空襲で歳を除き全焼したが、同二十九年、大観の強い意思でほぼ同様に再建された。
 建物は木造二階建ての数寄屋風日本家屋である。一階には鉦鼓洞(客間)、第二客間、寝室、台所等の居住空間が設けられ、二階には画室がつくられた。
 庭園も空襲によって甚大な被害を受け、多くの樹木が失われたが、再建に合わせてほぼ旧態に復された。
 横山大観旧宅及び庭園は、大観が自ら趣向を凝らして造営したもので、大観の思想や感性が随所に反映されている。実際に創作活動が行われた場であり、庭園内の素材に取材した作品も多い。
 昭和五十一年に横山大観記念館として一般に公開された。また平成七年に台東区史跡として登載され、同二十九年、国史跡及び名勝に指定された。



 横山大観先生は近代日本画壇の代表的巨匠である 明治元年水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸に生まれ本名を秀麿 母方の横山の姓を継ぐ
 明治26年(1893)東京美術学校卒業 校長岡倉天心に愛されて終生大きな感化を受けた 明治30年(1897)東京美術学校助教授となったが1年で職を辞し岡倉天心が創設した日本美術院に下村観山 菱田春草とともに日本画の革新運動を起した その後美術研究のためインド ヨーロッパ各地及び中国などを視察し 師天心の思想である東洋の理想をうけつぎ 新しい日本画を創造した
 明治45年(1912)からこの地に居し画筆をとる 昭和10年(1935)帝国美術院会員 昭和12年(1937)第一回文化勲章受賞
 代表作に「無我」「満湘八景」「生々流転」の他多くの水墨山水 富士山などがある
 昭和32年(1957)5月台東区名誉区民に推戴された 昭和33年(1958)2月歿 90歳
 昭和43年(1968)10月 東京百年を記念し建立する










続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/08/22/213000