2022/08/22 不忍池・銀座散歩 03 境稲荷神社/稱仰院/無縁坂/講安寺/三菱経済研究所/湯島ポンプ所/㈱伊豆勝

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2022/08/22/210000




◆境稲荷神社



文明年間足利九代将軍義尚公により創祀されたと伝えられ忍が岡と向が岡の境に鎮座するところから境稲荷と称され両村の総鎮守であった。
寛延3年隣地岡上の松平邸より出火した火災により社殿をはじめ義尚公自筆の扁額や重宝古記録とも焼失したが別当慈海によって再建された。
現参道口鳥居の扁額はこの時拝殿に奉納された半井大和守筆の額字を写したものである。
古歌「忍ぶ丘向ふる岡の境なる神のやしろは松の下谷
その後明治28年湯島切通坂鎮座の宝剣稲荷を合祀している。
昭和20年3月戦禍を受け現在の本殿拝殿鳥居並に社務所は平成5年の造営である。
境内本殿裏の井戸はその昔の当社別当原泉山三光寺の名称からも非常に古くからの湧水であることが知られ江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」と在り名水をもって知られている。


弁慶鏡ヶ井戸


境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸

 境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(一四六九~一四八六)に室町幕府第九代将軍足利義尚が再建したという。『境稲荷』の社名は、この付近が忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池之端一・二丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
 社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうつおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和一五年に再び掘り出し、とくに昭和二〇年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。


石塔











◆稱仰院

本堂らしきものが見当たらない?
WEBで調べると近くにあるようだ。
どこにあったんだろう。

参考
稱仰院|文京区湯島にある浄土宗寺院



google mapには「近藤秀用墓所」がある。
調べてみた。
墓所は東京都文京区本郷の大安寺。』
とあったので、おそらく間違いだと思われる。
近藤秀用 - Wikipedia










◆無縁坂

坂下。
さだまさしさんの「無縁坂」という曲に由来があるとのことだった。

参考
無縁坂〜母の人生を坂道に喩えながら綴ったさだまさしの名曲|街の歌|TAP the POP



坂途中。



坂上



 『御府内備考』に、「称仰院(しょうこういん)前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有候に付 右様相唱候旨申伝・・・」とある。
 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は、江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
  不忍の 池の面にふる春雨に 
    湯島の台は 今日も見えぬかも
      岡 麓’(ふもと)(本名三郎・旧本郷金助町生まれ1877~1951・墓は向立2丁目高林寺)


旧湯島両門町

 むかし、 湯島郷に属した。 講安寺門前、称仰院の門前町として開かれた町屋である。
 明治2年、この二つを併せて、両寺の門前なので、 湯島両門町と名づけられた。
 南側は江戸時代の榊原康政 (徳川蒙藤四美王の一人)の屋敷跡。 明治になって桐野利秋の邸宅となり、 西郷隆盛とともに桐野が鹿児島に帰ると、三菱の初代岩崎弥太郎の本邸となった。 現在は最高裁判所の研修所である。
 講安寺 (土蔵造の本堂で有名)の前の坂は、無縁坂である。 数年前まで格子戸のある木造の家があった。
「岡田の日々の散歩は、大抵道筋がきまっていた。 寂しい無縁坂を降りて・・・・・」 (森鷗外『雁』)



旧町名版は無縁坂の途中にあった、










◆講安寺


講安寺本堂と庫裡(くり)

 本堂は、社寺建築でありながら土蔵造りである。寺伝にいう宝永五年(1708)から、かりに寛政元年(1789)頃にさがっての建立であったとしても、江戸の町で普及した土蔵造りという防火建築が、多くの災害にあい、また、建て替えられるという歴史的推移のなかで、残ることのできたことは、貴重である。
 特に、寺院の住居部分は、改築や新築が頻繁で、昔の姿で残るのは極めて珍しい。ここは幕末(寄進札に文久元年1861年)のものとはいえ、客殿、庫裡が残り、江戸期の形式をよく保存している。さらに、寺門は戦後再建されたものであるが、旧形式が保たれている。
 寺門、本堂、客殿や庫裡に至るすべてが旧規をよく保存し、まれにみる第1級の文化財といえよう。


講安寺本堂および庫裏(付・文書2)

 本堂は外壁が漆喰で何度も塗りこめられた土蔵造である。 建造は寺伝によれば宝永5年 (1708) とあるが、 本堂の欄間彫刻の裏側に寛政元年(1789)の墨書銘のあることから、 寛政期 (1789~1801)を下らないと考えられる。土蔵造は火事に悩まされた江戸の人たちの防火建築の知恵である。
 客殿や庫裏は幕末の建造物であるが、 本堂と共に江戸期の姿をよく保存している。 寺門は戦後に再建されたものであるが、 旧形式がよく保たれている。
 四代住職顕譽(けんよ)の遺言として防火の戒めの古文書が残され、 「類火は格別、寺内門前共に自火の用心専一に致す可き事」 とある。


境内











◆三菱経済研究所

三菱史料館があり一度来た記憶があるのだが、日記が見当たらない・・・・。
おそらくmixiに日記が残ってるはずなんだが・・・・・。











◆湯島ポンプ所

工事中だった。










◆㈱伊豆勝

あの、伊豆栄にも卸している?
WEBで調べても何も情報が得られなかった。










続く。
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